[イムンヨンの歴史ファクトチェック]消えない「鉄杭怪談」の起源と類型
[イムンヨンの歴史ファクトチェック]消えない「鉄杭怪談」の起源と類型
日本植民地時代に日本が韓国の名山大川に鉄杭を打ち込み、「地気」を破壊する風水侵略をしたという話がある。
そしてこれによってあちこちの山の中の深いところに打ち込まれた鉄の杭を探して除去する作業が行われていた。
そもそも鉄の杭を地面に打ち込んで「地気」を破壊するという話そのものが荒唐無稽な話だ。
宇宙と生命の秘密を科学が解き明かしている21世紀に、地面に杭を打ち込んで人間の物事に影響を与えるという発想を真剣に信じること自体に問題がある。
風水の中でも龍脈(地中を流れる気のルートのこと)が人間の運命に影響を与えるというのは迷信だが、今もなお人々を魅了しているのが事実であり、とても悲しいことだといえる。
宇宙と生命の秘密を科学が解き明かしている21世紀に、地面に杭を打ち込んで人間の物事に影響を与えるという発想を真剣に信じること自体に問題がある。
風水の中でも龍脈(地中を流れる気のルートのこと)が人間の運命に影響を与えるというのは迷信だが、今もなお人々を魅了しているのが事実であり、とても悲しいことだといえる。
日本がこのようなことをしたと主張する人たちは、まさにこの点に注目する。
「当時の人々は龍脈を信じていたので、植民地の朝鮮人に敗北感を与えるため、日本がこのようなことをした」と言うのだ。
敗北感を与えたいなら、それについて知らせなければならない。
「私たちはあなたがたをこのように凌辱している!」と示さなければならない。
しかし日本は、鉄の杭を誰も知らないうちに打ち込んだ。
「私たちは朝鮮の山川の精気をこのようにして断ち切った」と日本が誇示した事例が一つもない。
誰も知らないうちに侮辱感を与えることが可能あなのか?
「当時の人々は龍脈を信じていたので、植民地の朝鮮人に敗北感を与えるため、日本がこのようなことをした」と言うのだ。
敗北感を与えたいなら、それについて知らせなければならない。
「私たちはあなたがたをこのように凌辱している!」と示さなければならない。
しかし日本は、鉄の杭を誰も知らないうちに打ち込んだ。
「私たちは朝鮮の山川の精気をこのようにして断ち切った」と日本が誇示した事例が一つもない。
誰も知らないうちに侮辱感を与えることが可能あなのか?
日本の役人たちが風水を信じていたのならありえたかもしれない。
そこに鉄の杭を打ち込めば、その地域から素晴らしい人材が出ないというのを信じるなら、そういうことをしたかもしれない。
では、彼らがそのようなことを信じていたという証拠はあるのか?ない。
冷静に考えてみると、韓国人がこのような迷信を信じていて、だから敗北意識に嵌ったのだ。
鉄杭の話は韓国人が自らを深く卑下する話である。
迷信に囚われ、まともな判断ができないということだ。
鉄の杭の問題の最も詳細な報道は、<月刊朝鮮> 1995年10月号に掲載されたキムヨンサム記者の<金泳三政府は「風水政権」か?>である。
以下の内容はその記事を基にして追加調査した内容を付け加えたものである。
そこに鉄の杭を打ち込めば、その地域から素晴らしい人材が出ないというのを信じるなら、そういうことをしたかもしれない。
では、彼らがそのようなことを信じていたという証拠はあるのか?ない。
冷静に考えてみると、韓国人がこのような迷信を信じていて、だから敗北意識に嵌ったのだ。
鉄杭の話は韓国人が自らを深く卑下する話である。
迷信に囚われ、まともな判断ができないということだ。
鉄の杭の問題の最も詳細な報道は、<月刊朝鮮> 1995年10月号に掲載されたキムヨンサム記者の<金泳三政府は「風水政権」か?>である。
以下の内容はその記事を基にして追加調査した内容を付け加えたものである。
1984年に山岳会が鉄の杭を抜く運動を始める
鉄の棒を抜いてまわった民間団体があった。
山岳同好会から出発した「私たちを考える会」というところで、1985年4月に北漢山白雲台の鉄の杭27本を抜き、15本を独立記念館に寄贈した(記事によっては16本とあるが、15本が正しい)。
そしてこの時から経済学専攻のソギルス博士が「日帝の風水侵略」の調査に乗り出した。
「私たちを考える会」が抜いた鉄の棒は、日本植民地時代に打ち込まれたというのは正しい。
その事実は朝鮮で発行された日本の新聞である「朝鮮新聞」1927年8月20日付の報道で確認することができる。
「白雲台登 - 道路寄付募集」という1段の記事に内容が出てくる。
記事の内容は、白雲台の道の補修に750ウォンが必要で、5人の日本人が寄付に乗り出したということ、白雲台は北漢山の最高峰で景観が最高のスポットで、百済の温祚王がここに北漢山城を築いたことがあるなど歴史的な事実を語った後、最近ここを訪れる人々が多いが道路が険しくて登山に危険なので、道路を補修し、地図表、登山案内板、鉄の手すりや階段などを作ることにしたというものだった。
その事実は朝鮮で発行された日本の新聞である「朝鮮新聞」1927年8月20日付の報道で確認することができる。
「白雲台登 - 道路寄付募集」という1段の記事に内容が出てくる。
記事の内容は、白雲台の道の補修に750ウォンが必要で、5人の日本人が寄付に乗り出したということ、白雲台は北漢山の最高峰で景観が最高のスポットで、百済の温祚王がここに北漢山城を築いたことがあるなど歴史的な事実を語った後、最近ここを訪れる人々が多いが道路が険しくて登山に危険なので、道路を補修し、地図表、登山案内板、鉄の手すりや階段などを作ることにしたというものだった。
1927年8月20日、朝鮮新聞「白雲台登 - 道路寄付募集」出所:国立中央図書館大韓民国新聞アーカイブ
続いて1927年10月1日の新聞では、9月25日に補修が完成し、600人の観光客が訪れていて、この景勝地が広く知られることを望むという内容が書かれている。
1927年10月1日の朝鮮の新聞。白雲台の道が開通したというニュース。出典:国立中央図書館大韓民国新聞アーカイブ
1927年11月12日「毎日申報」には、有志の力によって白雲台に登る道に鉄棒を並べて鎖を取り付けたので、危険がなくなって誰でも登れるようになったという内容が載せられた。
この日から、その記念として白雲写真集を連載し始めた。
このような内容のどこにも「日帝の風水侵略」の痕跡を見つけることができない。
こういったものは公然と行われていたものであり、白雲台から眺める絶景を安全に楽しめるよう寄付を受けつけて行ったものだった。
しかし1984年、「上がって下がる山芋会」という登山会が、白雲台に埋め込まれている鉄の杭を見つけて、「日本人が打ち込んだ鉄の杭を除去する必要がある」と考えた。
彼らは北漢山の近くに住んでいた82歳のおばあさんの話を聞いて決心をした。
このおばあさんは、「舅から、倭人たちが白雲台に上がって鉄の杭を打ち込んだという話を聞いた」と話した。
日本が宥和政策で白雲工事を施行したということ自体は、ソギルス教授も認めるものである。
鉄の杭の除去をしていた当時の韓国の山岳会顧問だったキムジョンテは、「白雲台の上の鉄杭は手すりと一緒に測定用に立てたもので、これは後に笑いの種になる可能性があるので、確実な事実を知ってから抜いても遅くない」といって反対した。
しかし1984年、「上がって下がる山芋会」という登山会が、白雲台に埋め込まれている鉄の杭を見つけて、「日本人が打ち込んだ鉄の杭を除去する必要がある」と考えた。
彼らは北漢山の近くに住んでいた82歳のおばあさんの話を聞いて決心をした。
このおばあさんは、「舅から、倭人たちが白雲台に上がって鉄の杭を打ち込んだという話を聞いた」と話した。
日本が宥和政策で白雲工事を施行したということ自体は、ソギルス教授も認めるものである。
鉄の杭の除去をしていた当時の韓国の山岳会顧問だったキムジョンテは、「白雲台の上の鉄杭は手すりと一緒に測定用に立てたもので、これは後に笑いの種になる可能性があるので、確実な事実を知ってから抜いても遅くない」といって反対した。
しかしソギルス教授は、「日帝が、朝鮮民族の精気を抹殺するため、白雲台に鉄の棒を打ち込み、その目的を歪曲して流布したのは確実です」と主張した。
何の根拠もない一方的な主張である。
何の根拠もない一方的な主張である。
1993年7月4日、「私たちを考える会」のグユンソ会長は、俗離山の文蔵台に鉄の杭があるという情報提供を受けてそこを訪れた。
グユンソは文蔵台の下の川の付近で8つの鉄の杭を発見した。
そのうちの一つを抜いて、白雲台の鉄の杭と比較し、「日本が打ち込んだ」と判断し、9月11日と12日の二日に渡って鉄の杭の除去作業を実施した。
この時のハンギョレ新聞の報道に、興味深い発言が含まれている。
グユンソは文蔵台の下の川の付近で8つの鉄の杭を発見した。
そのうちの一つを抜いて、白雲台の鉄の杭と比較し、「日本が打ち込んだ」と判断し、9月11日と12日の二日に渡って鉄の杭の除去作業を実施した。
この時のハンギョレ新聞の報道に、興味深い発言が含まれている。
汗を流して鉄の杭を抜いた会員は、「この鉄の杭が日本の掣肘(わきから干渉して人の自由な行動を妨げること)と断定するのは難しいのかも知れないが、この作業を通じて私たちの心の中に埋め込まれている日本の掣肘を除去し、民族の魂を回復することは意味あること」と嬉しい表情を浮かべた。
「鉄の杭を除去して民族の魂を取り戻そう」ハンギョレ新聞1993年9月13日の記事
上記の証言を見ると、作業をした人でさえ、日本が打ち込んだという確信がなかったのだ。
月刊朝鮮の記事では、グユンソ会長がその鉄杭を打ち込んだ人の証言を聞いたという内容が出てくる。
その鉄の杭は、川の水を売っていたキムジュンベという人が、川で作業しやすいように、1958年ごろに打ち込んだものだった。
グユンソは、キムジュンベが「そのうちの2つは日本が打ち込んだという話を聞いた」と証言したといった。
8つのうち2つは日本の仕業ということだ。
しかしキムヨンサム記者は、ソンビョング(70歳)から、文蔵台の下の川の鉄の杭は解放前には見たことがなく、6.25以降にいくつか打ち込まれているのを見た記憶があるという証言を受けた。
ソンビョングはその話を他の記者たちにも話したが、どの記者も自分の言葉を信じてくれず、日本の鉄の杭という記事だけを書いていたという話もした。
民間団体は、白雲台(15本)と馬山(1本)、俗離山(8本)、北漢山(1本)から鉄の杭を除去した。
このようなことが起きて、鉄の杭への恐れが市民社会へと伝播し始めた。
1994年6月、韓国の移動通信が金烏山頂上に建立した大型中継塔工事が中断される危機に処した。
金烏山上に中継塔が立てられたら血脈が壊れるとして市民団体が反対し、これにパクセジク国会議員などまで参加して陳情書を出したのだ。
幸いなことに撤去には至らなかったが、当時の連合ニュースは撤去が決定したという誤報を出したりもした。
1994年6月、韓国の移動通信が金烏山頂上に建立した大型中継塔工事が中断される危機に処した。
金烏山上に中継塔が立てられたら血脈が壊れるとして市民団体が反対し、これにパクセジク国会議員などまで参加して陳情書を出したのだ。
幸いなことに撤去には至らなかったが、当時の連合ニュースは撤去が決定したという誤報を出したりもした。
政権次元で「鉄の杭を抜く」押し通した金泳三政府
このような鉄の棒の問題を育てたのは金泳三政府だった。
金泳三政府は1995年の光復50周年行事の一環として、鉄の杭除去を打ち出した。
1995年2月15日の閣議で議決された。
この当時、この仕事を管轄したパクスンジュ課長のインタビューを見てみよう。
金泳三政府は1995年の光復50周年行事の一環として、鉄の杭除去を打ち出した。
1995年2月15日の閣議で議決された。
この当時、この仕事を管轄したパクスンジュ課長のインタビューを見てみよう。
「今も一般国民は日本が国土の血脈を断ち切るために鉄の杭を打ち込んで地脈を切断したという噂を信じています。それは一種の精神的な被害意識です。光復50周年になる年に政府が鉄の杭の除去に乗り出した理由は、国民の漠然とした対日被害意識を払拭させるためです。」
「金泳三政府は「風水政権」か?」月刊朝鮮95年10月号
この事業はもともと慶尚北道記念事業だった。
それを政府がやりはじめ、全国へと拡大したものである。
慶尚北道で事業を始めようとしたとき、学芸員と公務員の一部が反対したが、頑として押しとおして事業化したものである。
慶尚北道は軍まで動員して鉄の杭を捜し、当時のキムヨンテ内務長官はそれを素晴らしいアイデアと賞賛し、鉄の杭捜しは全国へと拡大するに至った。
しかし鉄の杭を日帝が打ち込んだという確証がない状態だったので、関係の官僚は記者団に「日本が打ち込んだと推測されると書いてほしい」と頼み込んだ。
丹陽郡で除去された鉄の杭は、1893〜1894年頃に日本が打ち込んだものと主張されたが、この鉄の杭には洗練されたボルトが使われていて、とても19世紀のものと見ることはできなかったが、関係官僚はそれについての回答を避けた。
さらに丹陽郡で村長したことがあるウゲホンが、「その鉄の杭は自分が打ち込んだものだ」と証言した。縄を縛っておくために打ち込んだものだった。
ウゲホンはその事実を郡に話したが、郡庁は無視した。
丹陽郡で除去された鉄の杭は、1893〜1894年頃に日本が打ち込んだものと主張されたが、この鉄の杭には洗練されたボルトが使われていて、とても19世紀のものと見ることはできなかったが、関係官僚はそれについての回答を避けた。
さらに丹陽郡で村長したことがあるウゲホンが、「その鉄の杭は自分が打ち込んだものだ」と証言した。縄を縛っておくために打ち込んだものだった。
ウゲホンはその事実を郡に話したが、郡庁は無視した。
この記念事業の結果、全国で439件の届出があり、8月末までに13地域で18の鉄の杭を除去した。
江原道が一番多くて6地域(8本)、慶北は4地域(4本)、忠清北道は2地域(4本)、全羅北道は1地域(1本)の順だった。
つまり439件中たった10件だけが認められたのだ。
そして、その認定されたものでさえ、キムヨンサム記者の確認取材の結果、でたらめもしくは無知に基づくものだった。
江原道が一番多くて6地域(8本)、慶北は4地域(4本)、忠清北道は2地域(4本)、全羅北道は1地域(1本)の順だった。
つまり439件中たった10件だけが認められたのだ。
そして、その認定されたものでさえ、キムヨンサム記者の確認取材の結果、でたらめもしくは無知に基づくものだった。
特に日本植民地時代、森林保護局の臨時職員として華川、楊口の一帯で測定業務を手伝っていたイボンドの証言に次のようなものがあった。
「21歳の時、朝鮮総督府臨時政府の高賀忠賢とチャンギルボクという人について、華川区一帯を歩きまわりました。(中略)測定のために打ち込んた大三角点を、日帝が地脈を切断するために打ち込んだ鉄の杭だと誤解している。(中略)しかし、国奪われた悲しみが大きかった朝鮮人は、全国の山の頂上に入り、奇妙な鉄の杭を見て、噂が広がっていった」
引用ソース
http://www.newstof.com/news/articleView.html?idxno=1484
*最初からまともなことを言う人もいたのに、すべて無視されて進んでいったんだなというのがわかりますね。