親日作曲家が作った光州一校歌についての考え
趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから釜山386さん。
親日作曲家が作った光州一校歌についての考え
釜山386
1980年代、プロ野球が発足する前、高校野球に熱狂していた時代、大会を中継すれば、試合が終わった後に勝利した学校の校歌が出てきた。
私は釜山に住んでいたが、慶北高校、光州一高校、群山商業高校の校歌を今でもうっすら覚えている。
軽快な群山商業高校の校歌に比べ、慶北高校や光州一高校の校歌はどっしりしていた覚えがある(正直、釜山の名門である釜山高校や慶南高校よりも良い校歌だと思った)。
ところで、この光州一高校の校歌を変えるという。
その理由は、親日人士が作曲した歌だからだという。
光州一高校だけでなく、全国の学校を対象に全数調査をしていて、左派が狙っている究極の目標は、安益泰の国歌だという噂まで聞こえてくる。
太白山脈という映画を見ると、麗水順天反乱を鎮圧した国軍が群庁に進入し、軍歌を歌う場面が出てくる。
最後の歌詞が「大韓民国の軍人なることを願います」というこの歌、初めて聞いた時、とても良い曲だと思っていた。
ところでパクシチュンが作曲したこの曲は、もともと日本植民地時代には、学兵支援を奨励する「血書支援歌」だったという。
左派はこれについて、「韓国は、日本を賛美し学兵支援を促す歌を軍歌に改詞して使用した。それに比べて北朝鮮は、独立軍歌を軍歌として使った」という論理で、大韓民国の親日を浮上させる。
かれらは、血書支援歌以外にも、「喜び前途を眺める時」から始まる韓国軍の代表的な軍歌である勇進歌が「ああ 我が戦友」という日本の軍歌とはじまりの部分が少し似ているとして親日だと後ろ指を指し、さらに我々が高校の時に歌った学徒護国団についても「出征兵士を送る歌」という日本の軍歌と最初の起動部分が似ているといって日本風だと嘲笑する。
しかし、そのように問い詰めるなら、日本の軍歌は北朝鮮にたくさん残っている。
金日成作曲と宣伝されている<朝鮮人民革命軍> <みんな出よう> <みんな反日に> <反日歌> <少年軍歌> <祖国解放歌>六曲はすべて日本の軍歌の<日本海軍>の旋律を少しずつ変形した曲であり、「決死戦歌」は、日本の軍歌「敵は幾万」、「反日革命歌」と「目覚めよ大衆」は日本の「鉄道唱歌」をそれぞれコピーしたものだ。
誰が誰をコピーしたのかについて議論の余地はあるが、金大中が北朝鮮を訪問した際に順安飛行場で北朝鮮軍儀仗隊が演奏した代表的な北朝鮮軍歌「遊撃隊行進曲」は、1908年に出された日本の歌「ハイカラ節」と曲がまったく同じだ。
歌だけではない、太極旗も注意深く見ると日の丸を模倣して作ったのではないかという気がする。
旗でも歌でも、誰がどのように作ったのかは重要だが、それ以降に誰がどのような目的のためにそれを使用したかという歴史性のほうが重要であると考えている。
日本の曲に歌詞だけを変えて歌った歌であっても、その歌を独立軍が歌えば独立軍歌というのが正しいと思う。
親日人士が作曲した曲であっても、その歌を国軍が歌って共産軍と戦った場合、その時から別の歴史性を持つようになるだろう。
他国の国旗を模倣して作ろうとも、3・1運動時にその旗を持って独立万歳を叫び、光復軍がその旗の下で独立のために戦い、大韓民国の国民と国軍がその旗の下で戦って建設したのなら、空が二つに割れても太極旗が大韓民国の国旗で正しいだろう。
国歌を作曲した安益泰が親日をしたかしないか、光州一校歌を作った人が親日したかどうかは知らないが、今現在の時点でそのような議論をするのは無意味だと思う。
歌を作った人は一人だが、その歌を歌った人は数万、数百万、数千万である。
誰が作ったかよりも、誰がどのくらいの間、その歌を歌ったかのほうがより重要である。
どのような動機で作られたかよりも、誰がどのような目的で使用してきたかというその歴史性のほうがもっと重要である。
数万の同門が、数千万の民族が、70年から100年以上の間その歌を歌い、その旗を振ったとすれば、それは出生とは全く違う新たな歴史性を持つようになるだろう。
反民族集団である金正恩の世襲独裁王朝と同じ船に乗っている境遇で、親日派を攻撃する以外、手持ちのカードが底をついている従北左派が直面している現在の気の毒な境遇を理解できないわけではないが、詭弁もほどほどにすべきであり、やり過ぎると逆風を迎えるだろう。
釜山386
引用ソース
http://www.chogabje.com/board/column/view.asp?C_IDX=82333&C_CC=BC
*半島まるごと日帝残滓。
本当に日帝残滓清算するなら半島まるごと爆破でもするしかないんでしょう。