トルーマンが原爆を使わなかったなら?

趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから、このサイトの代表者の趙甲濟御大のコラムです。

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トルーマンが原爆を使わなかったなら?

趙甲濟


記者は1996年の秋学期に、ハーバード大学の行政大学院のケネディスクールで、「歴史からの推論」という科目を受講した。
大統領学の泰斗(権威者)として知られるリチャード・ニュースタルト、有名な戦史学者のアーネスト・メイ、ホワイトハウス国家安全保障会議出身のフィリップ・ジェリコの三人の教授が共に教える人気のコースだった。
受講生は約100人だった。
最初の時間に教授たちは、1995年8月に放映されたABCのドキュメンタリー「なぜ原爆が投下されたのか」を示した。
このプログラムは、概してトルーマン大統領の原爆投下の決定を批判的に扱っていた。
原爆投下前に、すでに日本政府内では降伏論が提起されており、日本の軍事力はほぼ崩壊していて、とにかく降伏は時間の問題だったし、特にソ連が参戦することになっていたので、あえて原爆を使う必要がなかったという主張をたくさん紹介していた。
本格的な学説に対して、意見の相違を提起する修正主義の学者たちの見解を反映していたのだ。

この映像では、スチムスン国防長官が1945年7月初旬、トルーマン大統領に、「日本に天皇制度を維持させるという約束をして降伏を要求すれば、戦争は終わるだろう」と提案したと主張していた。 
7月6日、トルーマン大統領は、米海軍のアウグスタ号に乗った。
ベルリン近郊のポツダムで開かれていたチャーチル、スターリンとの頂上会談に出席するために出発したものである。
彼のポケットにはスチムスン長官が与えた「最後通牒草案」が入っていた。
この草案は、日本が降伏すれば天皇制を維持することを許可すると書かれていた。
トルーマンの隣の席には、ちょうど任命されたばかりのジェームズ・バーンズ国務長官が座っていた。
彼は「もし大統領が日本と妥協すれば、政治的な十字架を背負うことになるだろう」と警告した。
トルーマンはこのサミットで、ソ連が対日戦争に参戦するという従来の約束についての再確認を受けようと気を使っていた。

ポツダムでスターリンと最初に会ったトルーマンは、その日の日記にこう書いた。
「私たちは昼食を食べておしゃべりをした。乾杯して、後庭で写真を撮った。重要な点については、ほとんどすべて合意した。スターリンは8月15日に参戦するだろう。」

7月16日、ニューメキシコ州で原子爆弾の実験が成功した。
トルーマンは、重要なカードを持つことになった。
彼は日記にこう書いた。
「スターリンはこの事実を知らない。私は今、私の手の中にエースを握っているが、さらに1つ多く持つことになったのだ。彼が2つのペアを持っていない限り、私は安心して楽しむことができる。」

これでトルーマンは、日本やソ連に対し、無理な譲歩をする必要がなくなった。
バーンズ国務長官は、対日最後通告のテキストで、「天皇制を維持させる」という項目を抜いた。
トルーマンは日記にこう書いた。 
「この武器は、来る8月10日以前に使用される。私は国防長官に指示した。軍事施設や軍人と水兵が標的にされるようにすべきで、女性や子供たちが怪我してはならないと。日本人は残酷で熱狂的だが、私たちは事前に警告する。降伏して命を救えるように。もちろん私は彼らがこの警告を無視すると信じているが、少なくとも彼らにチャンスを与えなければならない。」


都心に投下する必要は?

トルーマンがこの日記を書いているとき、すでに原爆投下の場所選定委員会で、爆弾を都市の真ん中に投下することを決定していた。
米軍は原爆投下前に警告もしなかった。
トルーマンは日記でも、「私はなにげなくスターリンに言った。私たちはすばらしい破壊力を持つ新兵器を開発したと。彼は特別な関心を示さなかった」と書いた。
この時スターリンは、米国の原爆開発研究所にスパイを置いていた。
トルーマンよりも先にスターリンは、この秘密の計画について知っていたのだ(トルーマンはルーズベルト大統領が死亡した後、大統領職についてから、この計画について報告を受けた)。
スターリンが知らなかったのは、米国がこの新武器を日本に対して使うという事実だった。
トルーマン大統領は、スターリンが、「なぜこの新武器開発について、友邦の私たちに教えてくれなかったのか」と問い詰められることを懸念して、急いでポツダムを離れたという。

この点について、このドキュメンタリーの解説者として出てきたABCの看板ニュースキャスターのピーター・ジェニングスは、問題を提起した。
「なぜ誰も、その時点で、『なぜこの時点で、じっくり座って考えて、原爆投下計画を見直してみないか』と言わなかったのでしょうか。」

この質問に答える形式で、Macジョージ・バンディ(ケネディ大統領の安全保障担当特別補佐官を務めた)はこう言った。
「もしそのような問題を提起したら、彼らはこのように言っただろう。『私たちは委員会を組織して、いろいろと検討をして、都市に原爆を投下することが最も効果的だという結論に達した。だから、どうせ粉砕するなら、早ければ早いほどいい』と。砲兵大尉出身のトルーマンも同じ考えだったのだろう」

ピーター・ジェニングスは、再び疑問を提起する。

「トルーマンは、日本が降伏要求を拒絶した後で、原爆投下命令をポツダムで下したと言っていたが、実際は日本が降伏を拒否する一日前にそういった命令を下していたし、大統領はその命令に署名もしていませんでした。」

原爆投下命令は、原爆開発業務責任者のグローブ将軍が起案してスチムスン国防長官が署名した。
8月6日午前8時15分に広島都心部上空で爆発した原爆で、7万5千人が即死した。
三日後に150万のソ連軍が満州で日本の関東軍を攻撃し始めた。
サイパンのすぐ隣のテニアン島では、第二の原爆を爆発させる準備をしていた。
広島に投下された原爆はウランで作られたもので、第二の原爆はプルトニウム爆弾だった。 
8月11日に落とすとされていたが、天気予報ではその日、日本全域が雲に覆うとされていた。
原爆責任者のグローブ将軍は、戦争が終わる前に、プルトニウム爆弾を実戦で実験することを望んでいた。
なので、二日早めて8月9日、長崎に原爆が投下された。
ピーター・ジェニングスは、このように主張した。

「広島原爆投下とロシアの参戦があった後、日本の強硬派は初めて降伏の問題について議論し始めました。長崎に対する原爆投下は延期するか、または停止させることもできただろう。ただし、2番目の原爆投下のため、再び大統領の裁可を受けるような仕組みにはなっていませんでした。」


100万人の人命を救ったのか?

米国は、2週間以内に第三の原爆を投下することになっていた。
日本の降伏決定を知る前に、トルーマン大統領は原爆投下の停止を命じた。
彼は、「これ以上、女性と子供たちを殺したくない」と付け加えた。
第二次世界大戦が終わった後、原爆投下を決定したことについていくつか批判が起きると、トルーマンは「原爆投下が100万人の米軍の生命を救った」という論理を打ち出した。
このドキュメンタリーの解説者のピーター・ジェニングスは、「その計算の根拠を見つけることができなかった」と述べた。

ワシントンのスミソニアン博物館は、1995年8月の原爆投下50周年に合わせて、原爆を広島と長崎の上空まで乗せていったB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の特別展示を企画した。
米国在郷軍人会が立ち上がった。
展示内容は、日本人の犠牲者たちをあまりにも浮上させて、米国を罪人視しているという抗議だった。
博物館側は、「この事件を様々な視点から見せようとするものである」と言ったが、退役軍人たちはこの問題を議会に持って行った。 
81人の議員が在郷軍人会を支援した。
約2年間ももめごとになった結果、スミソニアン博物館は展示企画を変更して、エノラ・ゲイのみを展示して、犠牲者の写真や解説はつけないことに決めた。
このドキュメンタリーの終わりに、ピーター・ジェニングスはこう指摘することを忘れなかった。

「在郷軍人会と一部の政治家が、私たちのこの権威ある博物館を威嚇して、広島の全貌を知らせることができないようにしたのは不幸なことでした。これは、歴史と自らに正々堂々としていない行動です。議論の自由を守護することこそアメリカ人が戦って死んでいった目的だったのに、です。私はピーター・ジェニングスです。グッドナイト」

3人で構成された「歴史からの推論」科目の教員は、このフィルムを見せた翌日の午後3時までに、1ページの論評を書いて提出するようにと言った。
記者はケネディスクールの1階レストランで、2.5ドルの昼食を食べながら、こういった要旨のエッセイを書いた。

「トルーマンが原爆を投下することに決定したことについての妥当性を、今の視点で評価するのは危険である。当時の緊迫した状況で、また、日本の動向についての十分な情報がない不透明な状況で、そのような決定を下したトルーマンの立場に立って考えなければならない。ピーター・ジェニングスは事後にすべての事実が明らかになった状況で、すなわち全知全能の神の視点から、50年前の決定を道徳的に判断しようとしている。原爆を使わなくても日本は降伏したと判断して原爆投下決定を批判するのは、あまりにも現実感が不足した見解である。戦争で指揮官は、常に最悪の場合に備えて行動しなければならず、希望が混じった期待で作戦を立てることはできない。」


子供が竹槍を持って出てくる

この科目の次の時間までに、学生が読まなければならなかった教材は、約400ページの分量だった。
記者はトルーマン大統領の原爆投下決定に批判的な修正主義学者の論文を読んだ。
原爆投下直前に米軍が作成した日本本土防衛軍の情報分析レポートを介して、その当時、米軍がどのような状況判断をしていたかを知ることができた。
米軍が日本本土侵攻作戦計画(コードネームオリンピック)を組んでいるとき、沖縄占領作戦が終了したばかりの時点だった。
4月初めから6月末まで続いたこの戦いで、米軍は1万2520人が戦死したり行方不明になった。 
3万6631人が負傷した。
日本軍は7万人が戦死して、沖縄の民間人は3万人が死亡した。
多くの日本人が降伏を拒否して自殺した。
だから日本軍捕虜は7000人に過ぎなかった。 
36隻の海軍艦艇が神風自殺攻撃によって沈没して368隻が破壊された。

米軍は、補給船が切断された状態でも勇猛に戦う日本軍に恐怖していた。
ソウルの一区程度の面積に過ぎないサイパン島攻防戦で、日本軍3万人が戦死して、1000人の民間労働者たちが自殺した。
捕虜は1000人に過ぎなかった。
タラワ島上陸前、米軍は、日本軍5000人のうち150人しか捕獲できなかった。
米軍は日本上陸作戦で子供が竹槍を持って戦う玉砕作戦を予想していた。

米軍情報レポートを読んでみると、1945年7月、つまり原爆投下決定が下される直前、日本は本土防衛のために死力を尽くして兵力を増強していたことを知ることができた。
米軍は日本軍が11月になると、日本本土の兵力が186万5000人に達すると予想したが、すでに7月にそのレベルに達したことを確認した。
日本軍が米軍の上陸地域で予想していた九州には、約45万5000の兵力が集結していた。

7月22日ポツダムでトルーマン大統領は、マーシャル合同参謀議長から、「日本上陸作戦で、我々は少なくとも25万、最大100万人の兵力損失を覚悟しなければならない。日本軍もその程度の被害を受ける」という報告を受けた。
原爆投下命令が太平洋司令部に通達されたのは、まさにこの日だった。
日本が降伏した後、米軍は自分たちの情報判断が過小評価だったことを発見した。 
8月初め、九州の防衛に動員された兵力は90万だった。
陸海軍所属の戦闘機8000が待機中だったし、そのほとんどが神風自殺特攻用だった。

第二時間目は、主にこの教材を読んだ感想を持っていって、一時間半の議論をした。
教授は再び原爆投下の正当性について議論するためのレポートを書いて出しなさいと言った。
記者は最初に書いたレポートの骨組みを変更する必要性を感じなかったが、2番目のレポートで、「いくつかの事実を補いたい」とした。

「修正主義学者たちの主張とは逆に、日本帝国は広島原爆投下前には降伏を真剣に考えていなかった。原爆投下とソ連の参戦という二回の打撃を受けても、御前会議では降伏に対する賛否の意見が同数だった。天皇が介入してこそ降伏を決意できる。修正主義者の主張とは逆に、日本軍は崩壊していなかった。彼らは上陸する米軍に対して三倍の兵力を動員することができるようになっていた。200万の兵力が死を覚悟して、お馴染みの地形で決戦を準備している状況で、最高司令官は根拠なき楽観論を信じて行動することはできない。原爆投下はむしろ日本政府内の穏健論者の立場を強化した。米内が言ったように、原爆投下とソ連の参戦は天からの贈り物だった。経済的な計算でも、原爆はより多くの人命を救った。」

このケーススタディに参加した記者は、1984年に日本の川崎駅近くの飲食店で会った森田芳夫さんを思い出した。
記者はその後、月刊朝鮮に載せる「朝鮮総督府高官のその後」を取材していた。
当時72歳だった森田さんの父は、群山で漢方病院をしていた人だった。
彼は京城を卒業した後、日本が降伏すると、韓国に住んでいた日本人が撤収することを助けた京城セファ会で事務をした。
この時の経験をもとにして、彼が書いた「朝鮮終戦の記録」は、日本人の撤退の過程を扱ったものとして、光復戦後史を研究する上で欠かせない本である。

森田さんは日本に帰った後、外務省の官吏となって、日韓国交が正常化される1年前から在駐韓日本大使館に勤務して、1975年に定年退職するまでそこにいた。
その後は聖霊大学で教授をしており、韓国で過ごした期間が長かった。
彼は「日本の最大の責任は韓半島の分断である」と述べた。
今もそうだが、日本の知識人たちの中には、韓半島の分断が日帝植民地統治と太平洋戦争の戦後処理の延長線上で行われたことに同意する人を発見するのが非常に難しかった時代だった。
森田さんはこう言った。

「無条件降伏を決めた御前会議が8月9日ではなくて、広島に原爆が落ちた8月6日に開催されていたら、ソ連は参戦の機会を逃し、38度線の分断もなかったかもしれません。逆に、この御前会議で決死抗戦を決意していたなら、ソ連の装甲部隊は釜山まで南下していたし、米軍は人命の損失を防ぐため、韓国への上陸をあきらめて、韓国をソ連の影響圏に渡して、韓半島全体が赤化されていたでしょう。」

※私は、もしトルーマン大統領が原爆を持っていながらも使用せず、日本上陸戦を展開し、米軍100万人が死傷していたなら、その後に何が起きたのかを疑問に思う。
アメリカ人は、トルーマン大統領が絶対の武器を持っていながらも使用しなかったことを後に知って、「戦犯国の人々のため、私たちの若者たちを生け贄に捧げた」といって暴動を起こして大統領弾劾に出たのではないだろうか?

趙甲濟

引用ソース
http://www.chogabje.com/board/view.asp?C_IDX=66707&C_CC=AC


*これが趙甲濟御大です。
「原爆投下は間違いだったのでは…?」ということを米国人が話し合ってる場で、「いや、正しかった!」と出しゃばって主張しはじめる韓国人。
この構図そのものに私は失笑せずにいられません。
 
なによりこの話題、翻訳してるだけで指が震えるし、耳が熱くなるし、体まで震えますね。
子供たちが大量に犠牲になったことを思うと、胸が痛くて、やりきれない気持ちになる。
原爆の犠牲者に心の底から哀悼の意を捧げます。


>>第二次世界大戦が終わった後、原爆投下を決定したことについていくつか批判が起きると、トルーマンは「原爆投下が100万人の米軍の生命を救った」という論理を打ち出した。
このドキュメンタリーの解説者のピーター・ジェニングスは、「その計算の根拠を見つけることができなかった」と述べた。

米国がこれについて検証してること、支持します。
私は原爆投下を「正しかった」と言ってほしくはないけど、ただ私は肯定派のいう「米軍を罪人扱いするのか!?」という反問について「だけ」はよく理解できる。
私も、日本軍人を罪人扱いする論調は耐え難いから。
でもさ、「犠牲者をいたむこと」と「軍人を尊重すること」は矛盾しないはずだよ。
「犠牲者をいたむために軍人を悪魔にする」か「軍人を尊重するために犠牲者をないがしろにする」か、どっちかしか選べない白黒二元論思考がオカシイんだと思う。(韓国人は、この二元論から逃れられない。)
もちろん広島原爆(長崎原爆)が市民を狙った無差別虐殺だったというのは間違いないことだけどね。



>>最初の時間に教授たちは、1995年8月に放映されたABCのドキュメンタリー「なぜ原爆が投下されたのか」を示した。
このプログラムは、概してトルーマン大統領の原爆投下の決定を批判的に扱っていた。
原爆投下前に、すでに日本政府内では降伏論が提起されており、日本の軍事力はほぼ崩壊していて、とにかく降伏は時間の問題だったし、特にソ連が参戦することになっていたので、あえて原爆を使う必要がなかったという主張をたくさん紹介していた。
本格的な学説に対して、意見の相違を提起する修正主義の学者たちの見解を反映していたのだ。

「本格的な学説」「修正主義の学者たちの見解」ってなんぞ?
「正しい学説」があって、それに反する見解が「修正主義」?
その感覚じたいがオカシイよ。
歴史研究が進めば修正もあって当然なのに。
縄文時代にも稲作が行われていたこと、実は江戸時代に士農工商の身分制度など存在してなかったこと、鎌倉幕府の成立年代などなど、「昔学校で当然のように教わってたこと」の間違いが次々に証明されて、教科書にも修正が加わっている昨今だ。そういうのを修正主義とは言わないのと同じだ。
日本でもサヨクがよく「修正主義」という用語を使うけど、「修正主義」を使うサヨクは、「歴史に対するさまざまな見解や新しい発見を認めない」と主張してるだけなんだよね。この発想は、おそろしい言論弾圧の発想でもある。
なにが怖いって、こういう人たちは、自らの行為が言論弾圧であるということを自覚していないということ。


趙甲濟氏ですが、彼を高く評価する日本の保守論客が一部にいます。
たしかにコラムによっては鋭くて深い考察を見せてくれるし、基本的に親日家でもあります。
でも、彼だって韓国人のくびきから逃れられない人です。



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