[パク・ドンイの野球レポート]「裏切り者」から「開拓者」として認められた野茂

長文です。
このパク・ドンイという記者は、韓国ネチズンの話を総合すると、筆がノると妄想小説を書きはじめる記者のようです。(韓国の記者はそういうタイプが多いけどw)
でも野球愛は本物だと思う。

パク・ドンイ記者が書いた記事
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「メジャーリーグのパイオニア」野茂英雄



一週間余りで悲喜が交錯した。
日本人メジャーリーガーの野茂英雄(46)を巡ってのことだ。

野茂は1月9日(韓国時間)に開かれたアメリカの野球記者協会の「2014年名誉の殿堂」入会の投票で、アジア出身メジャーリーガーで初めて候補に上がった。
米球界は大リーグ通算323試合に登板して123勝109敗奪三振1,912個、防御率4.24の成績を収めた野茂の、殿堂入会の可能性を低く見た。
通算成績が、名誉の殿堂入りを果たすには多少不足しているというのが理由だった。

しかし一方では、野茂がルーキーの身分で新人王と最多奪三振王を同時に手にしたこと、日本人初のオールスターゲーム出場、メジャー両リーグでノーヒットノーランを達成したことなどを掲げて、彼の名誉の殿堂入会は必ずしも不可能ではないという意見もあった。
そして蓋が開いた。

前者の予想が当たった。
野茂は、全体の571人の投票人団のうち、1.1%に相当する6票を獲得するにとどまった。
入会基準である75%、候補資格維持基準である5%にも満たない結果であった。
これにより、野茂の殿堂入り達成は水の泡となって、今後の投票でも候補となることができなくなった。
事実上、メジャーリーグの殿堂入会が封鎖されたのだった。

しかし、ぴったり8日後の17日。
野茂の殿堂入りが果たされたというニュースが聞こえた。
もちろん舞台はアメリカではなかった。
日本だった。
この日東京の殿堂博物館は、「2014年日本プロ野球名誉の殿堂」で、ダイエー(ソフトバンクの前身)ホークスの強打者だった秋山幸二と日米通算381セーブを記録した佐々木主浩、そして野茂を選定したと発表した。

アメリカでの殿堂入り達成に失敗した野茂が、挫折を乗り越えて、日本の名誉の殿堂入りに成功した瞬間だった。


日本最高のエースで「裏切り者」の代名詞となった野茂
 
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野茂が日本の殿堂入会のニュースを聞いて、メディアのインタビューに応じる場面


野茂は、日本の殿堂入り達成のニュースを聞いて、「(殿堂入り達成は)記者の投票で選ばれるもので、現役時代に記者たちと仲が良くなかったのに、(殿堂)の資格を得てから1年で選ばれるなんて、正直驚いた」と感想を明らかにした。

彼は、近鉄時代から引退するまでずっと、マスコミとの関係が良くなかった。
正確には、良くなかったというより、野茂自らマスコミとの接触を好まなかった。
理由は「私が言った言葉をマスコミが歪曲して記事化」したり「話してないことを話したかのように報道する」というものだった。

日本の野球週刊誌「週刊ベースボール」のイナモトモトハル前編集部局長は、「近鉄時代から野茂に何かを聞くと、いつも短い返事だけが返ってきた」とし「ある日『返事が短すぎて、記事を書くことができない』と訴えたところ、『そうすれば、皆さんが歪曲された記事を書かないだろう』という答えが返ってきた」と話した。

野茂がマスコミを避けたので、マスコミも野茂に好意的ではなかった。
イナモト前編集部局長は、「マスコミのインタビュー要請もほとんど断って、記者たちの間ではいつからか、野茂は『読者が関心があるため仕方なく記事を書くけど、本当に相手にするのが難しい頭の痛い取材源』と呼ばれ始めた」と回想した。

マスコミだけではなかった。
野茂は日本球界とも関係が良くなかった。
1994シーズンが終わって、野茂は「アジアの選手は米国で成功することができないという偏見を破ってやる」と、いわゆる「常識破壊」を持ち出してきた。
野茂がこれを実践に移して、いきなりの米国進出を宣言すると、日本の野球界は歓迎よりも彼を「裏切り者」と呼んで非難した。

所属チームだった近鉄バッファローズ(現オリックス)は、「球団への恩を知らず、アメリカに逃げた2流投手」と非難しており、有名な監督とコーチたちも先を争って「スターにした日本の野球界への感謝の気持ちを捨てて、自分の利益だけを追ってアメリカに飛んで行った『分別のない投手』」と厳しく批判した。
野茂と近かった野球関係者でさえ、「野茂はあまりにも利己的な判断を下した」と残念がった。

終身雇用と組織内の縦の関係が、当時まで「社会的常識」に近かった日本だから、野茂の「常識破壊」は反感を呼ぶに十分だった。

野茂に向けた非難は、野球評論家とメディアが力を合わせて、いわゆる「時期尚早論」と「米国での敗北」を掲げて頂点となった。
当時、ほとんどの野球評論家やマスコミは、「まだ、アジア投手がメジャーで成功というのは時期尚早だ」という言葉で、野茂の成功を否定的に見ている。

このような主張の背景には、日本で活躍する外国人選手たちによる「NPB(日本野球機構)リーグは、米国のダブルAやトリプルAレベル」という評価が隠れていた。
ここにNPBリーグ最高投手と呼ばれた江夏豊が、1985年にメジャーリーグ進出を試みたが失敗したということも背景となった。
何よりも、オフシーズンに開かれた日米オールスター戦での実力差が考慮された評価であった。
日本は米オールスターにたまに勝利していたのに、日本の野球界は「大リーグは、もともとオフシーズンの期間には休息をとる。今日の日本のオールスターでの勝利はラッキーだっただけ」という言葉で、自分の勝利の意味を縮小解釈した。
考えてみれば、オフシーズンの期間で通常のコンディションではないのは、日本の選手たちも同様だった。

とにかく日本の野球界の厳しい閉鎖性と、過度の謙虚さが大勢となって、野茂は「裏切り者」の烙印を押されて、彼のアメリカ進出宣言は、「失敗が明らかな冒険だ」と蔑視された。


野茂「選手は球団の付属品か?」

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1990年近鉄入団当時の野茂


それでは果たして野茂は「裏切り者」だったのか。
日本の野球界、球団、マスコミは、野茂​​に裏切り者の汚名を着せたが、NPBリーグの選手たちの考えは違った。
選手たちにとって野茂は、「日本のカット・フロッド」だった。

セントルイスカーディナルズ所属だったフラッドは、1969シーズンが終わって、フィラデルフィア・フィリーズにトレードされる。
フロッドは、球団のトレード決定に反発して、メジャーリーグの選手労組の支援を受けて、法廷闘争を展開する。
当時まで黒人差別が激しかったフィラデルフィアに行くより、セントルイスでずっと走っていたかったフロッドは、選手を独占的に保持したまま球団が勝手に選手を交換する「保留条項(Reserve Clause)」を奴隷制度に比喩して、「保有条項は、『隷属禁止』を明記した米憲法修正第13条に正面から違反している」と主張した。

全米がフロッドの法廷闘争を関心を持って見守った。
しかしフロッドの主張は、連邦最高裁で敗訴して、虚しく終わった。
フロッドは1971年にグラウンドに復帰したが、法廷闘争ですべてのエネルギーを消費していて、特別な活躍ができず、その年の終わりに寂しく引退した。
しかしフロッドの闘争に鼓舞された選手たちは、「保留条項」撤廃のために戦い続けた。
そして最終的に1977年「チームで6シーズンを走った選手はFA(自由契約選手)としてロック解除される」という条項を獲得するに至る。

野茂もフロッドのように、「保有条項」に反発して戦った。
違うものがあるとすれば、野茂は所属チームだった近鉄を離れたいために戦ったのである。
1994シーズンが終わって、野茂は球団と対決する。

1990年のプロデビュー時から1993年まで、4年連続最多勝利、最多奪三振という驚異的な成績を収めた野茂は、しかし、1994年に右肩を怪我して停滞している。
4年連続で216イニング以上、14回以上の完投を記録した彼を見て、日本の野球界は「無理がもたらした負傷だ」と評した。
一部では「負傷部位が肩なら、再びマウンドに立つまでに少なくない時間がかかるだろう」と予想した。

しかし野茂は萎縮していなかった。
むしろエージェントの団野村を前面に出して、球団に「これからFAを取得するまで6年残っているから、6年で20億円をくれ」という超高額の複数年契約を要求した。
さらに、当時としては我田引水だといわれていたエージェントとの代理交渉を要求した。

近鉄は「一考の価値もない話だ」と反論した。
日本の野球界も「要件が過度に非現実的で、非合理である」とし、野茂に背を向けた。
近鉄は野茂​​が条件を取り下げなかったため、「どうせ私達と契約しなければ『任意脱退』するしかない」とし、「結局、損をするのは野茂自身だ」という言葉で、圧迫の強度を高めた。

野茂は頭を下げず、最終的に近鉄は彼を任意脱退処理してしまった。
野茂の野球人生は、中断の危機を迎えた。
しかし、任意脱退は野茂​​のメジャーリーグ進出の出発点となった。

野茂は近鉄が突き出した任意脱退書に快く(?)にサインした。
そして1995年2月、LAドジャースとマイナー契約を結び、米国進出を宣言する。
結果的に、野茂のアメリカ進出は後日、日本、韓国、台湾の選手がメジャーリーグ進出を加速化する推進体になって、日本のプロ野球のFA期間が減り、エージェント制度がNPBリーグで認められた決定的な契機として作用する。


悪人にならなければできなかった野茂のメジャーリーグ進出作戦

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日本の社会人野球で、最高の投手と最高の打者と呼ばれた野茂(写真左から)と古田敦也が記念撮影に応じている場面。二人の選手はプロ転向後も、最高の投手と捕手としてそびえ立つ。


記者は昨年、野茂のエージェントだった団野村と、野茂と、近鉄とニューヨーク・メッツで一緒にプレーした元メジャーリーガー吉井理人に会った。
彼らの話を聞いて、野茂が無理な要求を出したから近鉄を去ったのではなく、近鉄を去ろうと思って無理な要求をしたという事実を知ることになった。
様々なインターネット百科事典に載っている内容とは大きな違いがあった。
二人が明らかにした内幕は、次のとおりである。

野茂は、1993年に仰木彬監督(逝去)が退いて、鈴木啓示新監督が赴任して、心理的に難しくなった。
現役時代に大投手だった鈴木監督は、野茂に「四球を減らさなければならない」と投球フォームの調整の必要性を強調した。
投球フォームだけはいじりたくなかった野茂は、鈴木監督との対立を招く。

更に、スポーツ用品の使用を巡っても、球団と対立する。
野茂は既にスポーツ用品メーカーのナイキと契約していたからであった。
1994年のオールスター戦で、他の選手がミズノのスパイクを履いていたのに反して、野茂がナイキのスパイクを履いて出たことについて、球団は野茂に強い不快感を示している。
パ・リーグから、ミズノのスパイクを使用する条件で金を受け取った近鉄としては、野茂の行動は「反逆」に近かった。
しかし野茂は「どうして選手の肖像権を球団が強制しようとするのか」と逆に球団の強要に反発した。

後日野茂は「近鉄球団が選手を消耗品や使用人扱いせず、仲間であると考えていたら、アメリカには行かなかった」としながら「球団と選手が同等の関係であるメジャーリーグを経験して、『米国に来てよかった』と思った」と述べた。

ともあれ団野村は「この時から野茂が近鉄を去りたがっていた」と話した。

1994年のシーズン半ば。
肩の負傷で2軍でコンディション調整していた野茂は、外国人選手のエージェントとして活動していた団野村に出会う。
野茂は団野村に「近鉄から去りたい。チャンスがあれば、長い間の夢だったメジャーリーグに挑戦したい」という意思を伝える。

しかし、現実的に野茂がアメリカに進出できる方法はなかった。
FAの身分でアメリカの舞台に挑戦するまでに、あと6年も残っていた。
悩んだ末に団野村は、NPB野球規約を翻訳して、メジャーリーグのエージェントであるヤン・テルレムに送る。
テルレムは「NPB規約の中に『任意脱退になると、他のチームでプレーすることができず、復帰した時も元所属球団に戻らなければならない』というフレーズがあるが、『日本を除く海外でプレーすることができない』などの条項が見つからなかった」と「まさにこの点を攻略することだ」と助言する。

団野村はすぐにMLB事務局に「NPBリーグで任意脱退になった選手が、アメリカでプレーすることができるのか」という質問書を送る。
そういう事例を扱ったことがなかったMLB事務局は、NPB事務局に「日本の任意脱退選手が国外リーグに移籍してもいいのか」という質問書を送付する。

NPB事務局は別に考えもなく、「日本での任意脱退選手が再びNPBリーグで現役復帰するには、必ず元所属球団と契約しなければならない」とし、「米国のチームとは、自由に契約することができる」という答弁書を送る。

NPB事務局の答弁書を手にした団野村は歓声を上げる。
任意脱退選手になれば、日本での選手生活は中断されるが、逆説的に国外進出への扉は開かれるわけだ。(今は規約が変わって、海外リーグでもプレーすることができない。)

団野村は野茂と協議して、近鉄が「任意脱退」という超強硬手段をとるように誘導する。
野茂は前例のない球団へのエージェントの受け入れと、6年で20億円という超高額複数年契約を要求して、「これを受け入れなければ引退も辞さない」と背水の陣で挑んだのも、任意脱退するための「準備されたシナリオ」だったわけだ。

近鉄はこれに気づかなかった。
そのため、「任意脱退」という超強気のカードを使って、野茂に向かって「頭を下げて反省しても、寛容はない」と宣言する。
しかしこれは見事にエースを逃す悪手になってしまった。
近鉄は野茂​​側がNPB規約の盲点をついて、米国への挑戦を宣言すると、「話にならない」と反発したが、「両国事務局の担当責任者の解釈を尊重しなければならない」という結論が出て、途方に暮れることになった。

近鉄は最後の自尊心を生かそうとして、野茂に「我々が米国行きを手配する」と申し出る。
しかし、「私はすでに任意脱退された選手です。もう球団の好意は必要ありません」という回答が野茂から返ってきただけだった。

野茂の米国行きが悪い先例になると判断した他の球団と、前後の事情を知らなかった球界関係者らは、先を争って野茂に中傷を浴びせた。


「挑戦ウイルス」を伝播した野茂

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野茂英雄のトルネード投球フォーム


1995年6年に20億円を要求した野茂が、LAドジャースと契約ボーナス200万ドル、年俸10万9千ドルの契約をすると、日本の野球界は「野茂が日本野球の価値を落としてしまった」と怒った。
彼の失敗を予想した一部の野球関係者とマスコミは、「研修費にしてはまともな金額だ」と皮肉ったりもした。

米球界も野茂の成功を疑わしく思う雰囲気だった。
野茂がドジャースに入団した時、当時の正捕手だったマイク・ピアザは「まだ彼のボールを受けていないから分からないが、大リーグで生き残るには何かが足りないようだ」と懐疑的な反応を見せた。

日本の野球界の冷笑的視点と、アメリカの野球界の懐疑的反応の中で、大リーグの舞台を踏んだ野茂。
しかし彼は実力で、これらすべての否定的な意見をひっくり返すのに成功する。

右肩の調子が良くなった野茂は、マイナーリーグで好投して、1995年5月にビッグリーグに昇格する。
そして6月から真価を発揮して、8月のオールスターゲームのメンバーに選ばれ、13勝6敗、防御率2.54奪三振236の優れた成績で、大リーグデビューシーズンを終える。
ナショナルリーグ新人王と最多奪三振王は、彼が獲得した。

翌年も野茂はノーヒットノーランを記録し、16勝・234奪三振、1997年は14勝・233奪三振で、大リーグデビュー以来、3年連続13勝、190イニング、230奪三振以上を記録する。
野茂はボストン・レッドソックスでプレーして、2001年もノーヒットノーランを記録して、メジャー両リーグでノーヒットノーランを作成する大記録の主人公になる。

特に野茂の、背中が見えるほどに体をひねって投げる「トルネード投球フォーム」は、たくさんの人々の関心を受けた。
トルネード投球フォームから出てくる「いきなり」落ちるフォークボールに、メジャーリーグの強打者が空振りを連発すると、米国の野球ファンは「野茂マニア」を自任し、熱狂的な支持を送った。

野茂の米国行きに批判的だった日本野球界とマスコミは、いつからか態度を変えて、彼を「パイオニア(Pioneer)」と呼び始めた。
野茂の失敗を大言壮語していた有名監督と野球評論家たちが、先頭に立って野茂のチャレンジ精神を称賛したのは注目すべきだ。

1995年から2003年までに7回の10勝と4回の220奪三振以上を記録した野茂は、2004年から負傷に苦しめられて下降傾向に入る。
そして2008年を最後にマウンドを永遠に降りる。

しかし、野茂で終わったのではなかった。
イチロー、佐々木主浩、松井秀喜、松坂大輔など、NPBリーグのスーパースターたちが野茂の後に続いて米国の舞台に挑戦する。
驚くべきことは、他の選手たちのアメリカ進出に、野茂が直接的または間接的に勇気を与えたということだ。
一例がある。

昨年記者と会った前大リーガー吉井理人が、「野茂のアドバイスがなかったら、アメリカ進出を断念していた」と述べた。

1997シーズンが終わって吉井は、FA資格を取得した。
その年13勝6敗、防御率2.99を記録した吉井を、読売ジャイアンツが大金をかけて獲得したいと考えていた。
吉井も読売に心がひかれた。
一方では、長い間の夢だったメジャーリーグ進出を試してみたい気持ちもあった。
その頃、野茂から電話がかかってきた。

「夜中だった。野茂は『昔の友人と一緒にいるので、吉井さんも来ませんか』と言った。『頭でも冷やそう』という軽い気持ちで野茂に会いに行った。気持ちよくお酒を飲んでいたのか、野茂は上気した顔でこう言った。『吉井さん。もし日本に残って、読売や他のチームに行ったら、一生後悔することになるかもしれませんよ。自分がしたいことは何なのか、内面の声に耳を傾けてみてください。そうすれば、少なくとも後悔して生きることはないでしょう』」

吉井は「過去、近鉄時代に一緒に体をほぐしながら、私が思わず投げた『私もアメリカの舞台を踏みたい』という言葉を、野茂が覚えていた」とし、「野茂のアドバイスを聞いて、苦心の末、メジャーリーグ進出で心を固めた」と打ち明けた。

吉井は日本球団が掲げた良い条件を拒んで、1998年にニューヨーク・メッツと1年契約を結ぶ。
NPBリーグの選手がFAを行使してメジャーリーグに進出した最初のケースであった。
しかしそのような歴史性とは別に、彼の年俸はオプションを除くと、20万ドルに過ぎなかった。
周辺が「巨人と契約していたら、少なくとも5億円以上は貰っていただろう」と残念がったのも当然だった。

しかし物足りなさは長くは続かなかった。
吉井はビッグリーグデビュー初年度にの1998年に6勝8敗、防御率3.93を記録して、メッツと2年500万ドルという良い条件での再契約に成功する。


1996年野茂が17奪三振を記録したときの映像


イチローのアメリカ進出も、野茂の影響が大きかった。
イチローは彼の自伝で「野茂さんがビッグリーグで大成功を収めた後、日本に帰ってきてTVに出演した時『イチローならきっとアメリカでも成功するだろう』という話をした」とし「野茂さんの話を聞いて、アメリカ進出について、心で決定を下した」と回想した。

佐々木も例外ではなかった。
佐々木は去る17日、日本殿堂入りを果たした後、マスコミとのインタビューで、「多くの日本選手がアメリカの舞台に挑戦しましたが、やっぱり一番覚えている選手は野茂」「野茂はアメリカの球団の訓練法や体調管理測定から、ロッカールームの管理人にどんなふうにチップを渡すべきなのかわからず困惑していた日本の選手たちに、開拓者の立場から多くの助言を聞かせてくれた」と明らかにした。


現役を終わらせる時に「後悔している」と話した男

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野茂ベースボールクラブが主催したユースオールスター戦で、野茂がユース学生選手とハイファイブをする場面


19年前、野茂を「裏切り者」扱いしていた日本の野球界とマスコミは、今回の殿堂入り投票で、彼に票を集めた。
野茂は、有効投票324票のうち267票を得て、最多得票で日本の殿堂入りを果たした。
候補に上がって1年での名誉の殿堂入りで、意味の深いものだった。
とくに、45歳4ヶ月で殿堂のメンバー入りというのは、史上最年少殿堂入りである。

しかし、個人的な栄光の瞬間であるにも関わらず、野茂は東京の野球博物館で行われた殿堂入り授賞式に参加しなかった。
代わりに自分が設立した「野茂ベースボールクラブ」がある兵庫県豊岡市に残った。
「野茂カップ子供野球大会」がちょうどそこで開かれるからであった。

イナモト前<週刊ベースボール>編集局長は「普通の野球人だったら、殿堂入り授賞式に参加しただろうが、『アマチュア野球の発展』に残りの野球人生の目標とした野茂にとっては、『子供野球大会』をきちんと開催しなければならないという責任感のほうが優先だったのだ」と述べた。

考えてみれば、野茂の責任は有名である。
日本のスポーツ隔週刊誌<ナンバー>が発行した「野球選手25人が挙げる私のベストゲーム」という本で、野茂は1990年4月29日の近鉄で獲得したプロデビュー初勝利と、1995年5月2日の大リーグデビューを「ベストゲーム」に挙げた。
本で野茂は、その理由を次のように説明した。

「社会人野球チームの新日本製鉄に入社した時もそうだったが、いつも後輩たちを意識して行動しなければならないと考えていた。私の些細な行動で、私の背中を歩く人々に影響を与えるかもしれないからだった。そのためか、近鉄に入団したとき『私の行動や成績で、新日本製鉄の野球チームが消える可能性があるし、評判が悪くなる可能性がある』と思った。そのような様々な重圧感がプラスになったのか、プロで順調に初勝利を収めることができた。プロデビュー初勝利を獲得して、これで責任を果たしたと思いで、どれだけ嬉しかったか分からない。」

そのためだろうか。
「アマチュア野球の発展」という強い責任感からか、彼は野球界を覗き込むかわりに、私費をはたいて、社会人、同好、ユース野球の活性化にこだわっている。

野茂は引退式で「身軽になった」「後悔していない」「すっきりした」という普通の選手たちとは違って、「現役から退いて、たくさん後悔している」と述べた。
後悔は、大記録作成への未練でも、お金への愛着でも、名誉を享受したいという欲求でもなかった。
ただ、好きな野球を続けたいと思う素朴な思いから出た言葉だった。

日本での殿堂入りを果たした野茂は、「裏切り者」レッテルを追い払った。
そして、彼が望むと望まざるに関わらず、日本の野球をより大きな舞台に導いた功労を認められて「開拓者」と評価された。
もう後悔よりも、誇りを感じて生きてもいいだろうに。
(近いうちに、野茂英雄ワイドインタビューでお会いしましょう)

引用ソース
http://sports.news.naver.com/sports/index.nhn?category=baseball&ctg=issue&mod=read&issue_id=438&issue_item_id=10217&office_id=295&article_id=0000001134


韓国人のコメント



・率直に言って、日本人ですが、野茂はクラスが違うようだ…
もちろんチャンホ兄さんも。
共感1243非共感92 

・↑記録をみるなら、野茂>>チャンホは認めなきゃ。

・↑クスリを飲みながら球を投げたチョッパリを崇拝する不思議な国。

・↑野茂≧チャンホ程度である。

・↑野茂がクスリをやってたら、最多得票で殿堂になるでしょうか?
野茂が韓国人だったら、虚偽事実の流布や名誉毀損で告発されてた。

・↑野茂はマウンドで何か違うように見える。特に目が、野獣のような感じ?
私は日本人が嫌いですが、それとは関係なく尊敬に値する選手であるのは間違いない。

・↑渡り鳥チャンホと野茂を比較するのか…
認めるべきは認めよう、馬鹿ども。

・↑正直どちらも偉大な選手であった。
​​野茂のほうがもっとよくやったが、パクチャンホも本当によくやった。


・両リーグでのノーヒットノーランは本当にすごい…
もう一度野茂のような投手が見たい。
共感1015非共感73 

・↑私はノーモア、見たくない

・↑野茂英雄はアジアの英雄であり、先駆者であって…認めなくてはならない。


・パク・ドンイさん、記事を頑張って書きましたね。
共感830非共感93 

・↑以前は感性だけで書いてたが、最近ちょっと記者らしい記事を書くようになったという皮肉ですか?

・↑日本野球に大きな関心がないのに、記事にすっかりはまって熟読した。
野茂も素晴らしいし、記事も素晴らしい。

・↑パク・ドンイがいつから記者だったのか。

・↑パク・ドンイはスポーツコラムを書く人であって、記者ではありません。
ちなみに73年生まれ。


・野茂は日本人らしい人で、精神世界が4次元の特異な人ですが、彼の性格におけるプロ意識や責任は、国を離れて尊敬するだけのことはある。
日本人だからという理由で、彼が上手くいかなかったときに歓呼していたことを反省する。
これからは日本人だという偏見を持って見ない。
野球を愛する者として、客観的かつ愛情のこもった心で、すべての選手を見よう。
野茂は大リーグの名誉の殿堂には入れなかったが、十分に資格を持った素晴らしい選手だ。 
共感119非共感5 

・↑まあ当時は、韓国と日本のチラシが、パクチャンホと野茂の比較をしまくっていたから無理もありません。
最近で言えば、キムヨナと浅田真央の比較と同じ感じだった。

【韓国の反応】キムヨナ、リプニツカヤ、浅田真央の「必殺技」の解剖…品格が違うキムヨナ


・率直に実力は認めなくちゃ。
ノーヒットノーランは本当にすごいことだ。 
共感123非共感13 

・↑両リーグでノーヒットだから2回、しかもその中の1回は、投手の墓場と呼ばれるクアーズフィールドでのことだから…空前絶後だ。


・アジア人もメジャーで成功できるということを、初めて示した選手。
共感111非共感12 


・野球を学んだばかりの初心者で、野茂は名前だけを聞いていたが、このようなことがあったことを、今回の機会で初めて知った。
野茂は本当に驚異的なチャレンジ精神を持っていて、責任感もある素晴らしい選手だ。
共感82非共感7 


・どんな観点から見ても素敵でカッコイイ。
私にはできないが、してみたい人生。
共感78非共感11 


・野茂の名言「小市民は挑戦者を嘲笑する。」
私が尊敬する野球人である。
共感54非共感3 


・小市民はいつも挑戦者を嘲笑する 
共感33非共感4 


・冷静に評価して、野茂がパクチャンホより実力と投球の質で優れていたと思う。
共感27非共感2 


・野茂英雄のおかげで、東洋人の野球選手たちへの偏見が壊れたのは否定できない事実…
本当に偉大な投手だった…
共感34非共感9 


・日本選手の中で、韓国でもアンチがいない数少ない選手の一人だ。
まさにレジェンド! 
共感27非共感3 


・驚異的な人物だったの…ブルブル
共感26非共感4 


・アジア野球の伝説…
日本人ということを離れて、野球選手として尊敬を受けて当然の人物だと思う。 
共感22非共感3 


・子供のときは、何も知らなくてこの選手をめちゃくちゃ罵っていたが、今考えてみると本当にすごい選手ですね。
たとえ日本人だとしても、いろいろな面で学ぶ点が多い人です。
共感24非共感5 


・私もパクチャンホのおかげで野茂を初めて知ったけど、その独特の投球フォームと、非常に図体が大きくて、西洋人を無作為に三振処理する姿は、今でも衝撃が覚めないほど強烈だった。
私はメジャーリーガーの野茂を賞賛するのであって、日本人の野茂を賞賛するわけではない。
彼が日本の野球と摩擦があるのはずいぶん前から知っていたが、この記事でより詳しく当時の文化や状況を理解することができた。
優れた人物はいつも、このようにして危機を克服し、なにかを達成するようだ…何か壮大な叙事詩のようだけど、普遍的な真実だろう?
パクチャンホより前に、メジャーリーグで成功した初めての事例、野茂。
共感13非共感1 


・野茂はアジア最高の投手か。
今後100年間は野茂​​以上の投手は出てこない。
共感11非共感0 


・メジャーリーグに進出するアジア人は、みんな野茂に感謝しなければならない。
彼が東洋人の野球でも大リーグで通じるということを見せたので、他の人も進出が可能だった。
野茂がトップだ。
共感11非共感0 


・性格もそうだし、野球選手としての情熱でもそうだが、野茂は見習うに値する選手である。
ただ日本人で、パクチャンホ選手と同じ時期に活躍していたという理由だけで、意味もなく罵られていた。
記者たちも、でたらめな記事をたくさん書いていたよね…
共感10非共感1 


・123勝すべて先発勝利~
リュ・ヒョンジン選手がこの記録に挑戦しよう~
(ダルビッシュが最初に到達する可能性もあるけど)
共感8非共感0 

【韓国の反応】ダルビッシュ有、田中将大、岩隈久志が「MLB先発投手TOP9」に選定される


・優れた野球の実力よりも、人間的な面をもっと尊敬する。
共感8非共感0 


・日本人ではあるが、そのチャレンジ精神と責任感には賛辞を送らないはずがない。
国籍を離れて、人として本当に立派なマインドを持っている人ではないかという気がする。
共感8非共感0 


・デビュー後3年は本当にすごかったですね。ジンクスなし。
共感18非共感10 


・小市民はいつも挑戦者を嘲笑する。 
共感10非共感3 


・ハル…漠然とチャンホと同じようなものだと思ってたが…
完全にレベルが違うようだね…すごい…
共感10非共感3 


・今まで数多くの投球フォームを見てきたが…
本当に野茂のトルネードの衝撃と恐怖は言葉では表現できません…
共感6非共感0 


・ハル…ビッグリーグ進出に、こんな事情があったことは知らなかった。
ただの日本の野球の英雄ではなく、おそらく時代を超えてずっと称賛を受ける選手だと思った。
実力も実力だが、理不尽と不条理と戦った勇気と開拓の精神に敬意を表する。
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・これのどこが記事だ。
タイトルで釣ろうとする記者たちは反省して下さい。
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