インドの独立運動は3.1運動の影響を受けて起きたものではない

0H2RbwtAHXkU51a1533368648_1533368988



インドの独立運動は3.1運動の影響を受けて起きたものではない

1919年4月18日のアムリットサル虐殺事件の展開と歴史的意味

インドの歴史の専門家であるイグァンス先生(釜山外国語大)が、3.1運動がインドの独立運動に影響を与えたと信じている国内の俗説に反論を提起してFacebookを介して論争を繰り広げたという。
実際にある経済学者との論争を紹介したりもした(ニューストップの記事→その記事への反論→それに対する反論→さらに反論)。
昨年のインド訪問当時、ムン大統領がこういった内容(インドの独立運動は3.1運動の影響を受けて起きた)に言及したことによって、韓国内で一般的に知られる俗説になったのではないだろうか。
ではなぜ「俗説」というのか。
事実ではないからである。

1919年4月13日のアムリットサル虐殺事件(Jalianwalla Bag)が韓国の3.1運動の後に起きたというのは事実だが、3.1運動の影響を受けて起きたということはできない。
インドの独立運動はすでに1885年国民会議の結成とともに始まっていた。
もちろんこの虐殺事件に刺激されてさらに積極的に非暴力及び不服従運動が展開されたのは事実だ。
すでに1915年からインドで自治に向けた運動が激しくなり、国民会議もより積極的な自治運動を繰り広げていった。
第一次世界大戦当時、インドの人的・物的資源の動員に大きく依存していた英国政府は、インドの自治に対して複数回言及し、それに応じて国民会議中心の自治運動がますます強力に展開した。

問題は、この虐殺事件が3.1運動のように「独立」を唱えたデモ群衆を英国が弾圧したことからはじまったといわれているという点である。
この虐殺は、パンジャーブのシーク教徒の伝統的なバイサキ(Baisakhi)祭りに参加するために、この公園に集まった群衆に向かってイギリス軍とインド人傭兵部隊が射撃を加えた事件だ。

パンジャーブはベンガル地域とともに、第一次世界大戦期、インドで最も多くの人的・物的資源が動員された場所のうちの一つだった。
これにより、英国の支配に対する反感が全体的に高くなった。
国民会議とガンジーが主導する非暴力運動を支持する人々が増加した。
特にガンジーが3月30日(後に4月6日に延期)、全国にゼネストに参加してほしいという要請文を発表し、副総督と軍司令官が緊張していた。
パンジャーブ州の副総督は、地域社会で尊敬されている自治活動家二人を大衆から隔離させることを決定した。
その命令に応じて2人が警察に逮捕された。

この逮捕に抗議するデモが複数の場所で発生した。
特に4月9日、デモ隊が市内に進出し、英国系銀行を攻撃して死傷者が発生し、ミッションスクールの教師だった若い白人女性が拉致されて暴行事件が発生した。
地域軍司令官レジナルド・ダイヤー(Reginald Dyer)大佐は13日、バイサキ祭りに備えて近くの傭兵部隊の兵力を動員して警戒を強化した。
彼は1857年の傭兵反乱を頭に思い浮かべたりした。
3月から施行することにしていたマニホールド法(集会・デモ禁止法)に基づき、集会禁止令を公表した。

もともとバイサキ祭りは、毎年春に開催される新年を迎える祭りであり、それと同時に17世紀末のグル・ゴービンド・シング(Gobind Sing)指揮下の全師団結成を祝う行事でもあった。
しかし、虐殺劇のあったその日、バイサキ祭りに参加するため公園を訪れた人のほとんどは、市内ではなく近隣地域の人々で、集会禁止令を知らなかった。
だから祭りの参加者の多くは、イギリス人が警戒して恐れるほどの強力な非暴力独立運動のためのデモの計画を立てていなかったのだ。
ただ、一部の参加者が、逮捕されていた二人の指導者の釈放を要求しただけだ。

祭りの参加者がますます増加したとき、ダイヤーはマニホールド法に基づいて、集会を認めることができないという声明を発表することもなかったし、事前の解散をすすめたりもしなかった。
むしろ午後に参加者が公園の外に出ようとする時点で、彼は4つの出入口の前で包囲していたインド人兵士たちに、10分間の一斉射撃命令を下す。
いわば傭兵に、同族に向かって銃を撃つよう命令したものである。
この突然の射撃命令は、インド政庁調査委員会も明らかな誤りだと指摘した。
おそらくダイヤーは、それまでの散発的なデモに感情が激しくなっていて、インド人たちに厳しくしなければならないという決意をしたのかもしれない。

瞬く間に多くの参加者が銃で撃たれて倒れた。
公式の統計でも、その瞬間に379人射殺され、1100人が負傷している。
この数値はダイヤー自身が英国議会に報告した内容である。
当時のインド国民会議の推計では、死亡1000人、負傷1500人にのぼる。
この事件に対する抗議として、ラビンドラナート・タゴールは、その数年前にノーベル賞受賞記念で受けた爵位を返却し、国民会議の積極的な妥協運動がすぐに展開された。
もちろん数年後、この運動の動力は弱体化する。

後日、インド政庁調査委員会でダイヤー大佐は、人が殺到していないところだけに射撃指示を出したという言い訳をする。
しかしインド国民会議の報告書には、このような叙述が出てくる。
一部の兵士は群衆に向かって撃つことができず、空に向けて射撃したというものである。
それを見たダイヤー大佐はこう怒鳴ったそうだ。
「銃口を下げて射撃しろ。君たちはここへ何しに来た?」

それだけでなく、虐殺直後ダイヤー大佐は4月9日に女学校で白人の女教師が襲撃された場所を確認し、その周囲四方180mの空間にラインを引き、朝6時から夜8時まで、そこを通過する人は必ず這って通らなければならないという命令を下す。
この命令は1週間続いた。
夜の時間を除いては、夜間通行禁止令が発動されたからである。

1920年6月、ダイヤー大佐問題について、英国下院で議論が起きた。
概ね折衝論に終わったようだ。
過剰対応か、それとも軍人として適切な措置をとったのか、両論があったが、過剰対応との見方が少し優勢だった。
その一方で、多くの議員が、インド国民の情緒を考慮する現実論に同感を示した。
特に当時自由党議員だったウィンストン・チャーチルは、その虐殺は令弟国への侮辱行為とし、ダイヤーの職位解除と不名誉除隊を主張した。
当時将軍の待遇を受けていたダイヤーは、大佐の身分から免職された。
この免職措置だけが、日本の場合とは異なるようだ。
3.1運動後、多数の死傷者が発生したという理由で日本人の官吏や軍人が日本で不利益を受けた事例はなかっただろう。

よくアムリットサル虐殺とそれに次ぐインドの独立運動は、世界史的に第1次世界大戦後の植民地で展開された全体的な脱植民運動の事例として3.1運動と並んで列挙されることがあるが、3.1運動の影響を受けて行われたというのは飛躍である。
おそらく韓国社会だけでおなじみの見解である。

引用ソース
http://www.newstof.com/news/articleView.html?idxno=1356





*「インドの独立運動は3.1運動の影響を受けて起きた」←この手の過大評価、韓国は好きだよね。

インドの独立運動だけじゃなく、「世界に影響を与えた3.1運動」について書かれた部分を韓国ウィキから引用して紹介しておきます。



世界的に3.1運動が伝えられると、植民地統治に苦しんでいた他の植民地国でも3.1運動の影響を受けた民族独立運動が起こった。
中国の5.4運動に影響を与え、この事件をきっかけに、中国の朝鮮に対する一般民衆の認識が確実に変わった。
運動前は朝鮮という国が劣等なので日本の植民地になったと冷笑し、合併されたら朝鮮人たちは日本に抵抗せず順応するという認識が多かったが、3.1運動以後、自分たちが良心を持って行動していないことを反省し、外勢への抵抗と抗日運動を積極的に展開し始めて、有識者から一般市民まで朝鮮人の抗日精神を非常に高く評価した。
台湾の独立運動にも影響を及ぼしたと分析されている。
インド諸島の非暴力独立運動にも影響を与えたと言われているが、そうではないという意見もある。
ただし、大衆に認知度が大きくないだけであって、ガンジーなど当時のインドの独立の巨頭レベルの人物やタゴールのような知識人たちは、3.1運動について十分認識しており、ネルーが娘のインディラ・ガンディーに出した手紙を見ると、日本の脅威の中で3.1運動に参加した朝鮮人たちを称賛したほどであった。
つまり間接的な影響は与えたということである。
それだけでなく、ロシア、南米でも大きく取り上げられた。


以上、韓国ウィキでした。
さらに、韓国の教科書にも同じような記述があるので、韓国人の多くが潜在的にそういった認識を持ってると思います。

・6次教育課程の高校国史(下)III。
民族の独立運動部分の「3⋅1運動の意義」という項目で、このように記述。
「3⋅1運動は、中国、インド、東南アジア、中東地域で反帝国主義民族運動を起こさせるようにした先駆的な役割を果たしたりもした。」

・7次教育課程中学校国史IXの民族の独立運動項目で、このように記述。
「3⋅1運動は、アジア各地の民族運動にも少なくない影響を与えた。特に中国やインドでは、3⋅1運動の影響で大規模な民族運動が展開された。」

さらにさらに、韓国政府の行政安全部国家記録院に記録されている「3.1万歳運動の意義」で、「3.1運動は、国際社会に韓国人の自由と独立への熱望と意志を刻印させた。これは中国5.4運動、インド、エジプト、インドシナ、フィリピンの独立運動に影響を与えた。」と書かれている。



*追記です。
コメント欄より、韓国の捏造を一つ紹介しておきます。


タゴールの詩、韓国人好みに仕立て上げたとは苦々しい

「岸で夜は明け/血の色の雲の早朝に/東側の小さな鳥/声高く名誉の凱旋を歌う」 

1913年にアジアで初のノーベル文学賞を受賞したインドの詩人タゴールがベンガル語で書いた詩だ。何を歌ったのか。
日本が日露戦争で勝利したことを祝う詩だ。
インドが長い間の英国の植民地統治から抜け出せないことを残念に思っていたタゴールは、当時世界的な強国に浮び上がった同じアジアの日本に好感を持った。1916年をはじめ5回も日本を訪問した。茶道、生け花、俳句など日本の伝統文化に魅了され、「詩心を起こさせる国」と高く評価した。
日本滞在中の講演を通じ、「日本はアジアに希望をもたらした。私たちはこの日出ずる国に感謝する」と話したりもした。
大アジア主義を叫んだ日本右翼の大物頭山満とも懇意にしていた。 

これほどになるとタゴールの詩「東方の灯燭」を記憶する多くの韓国人はいぶかしいだろう。
教科書にも載せられた「東方の灯燭」は、「早くからアジアの黄金時代に/光る灯燭の一つである朝鮮」で始まり、「わが心の祖国コリアよ目覚めて下さい」で終わる。日帝統治下の朝鮮のために書いた詩だとされ韓国人なら誰が見ても植民地支配から抜け出せと励ます内容として読まれる。
そんなタゴールが日本の味方だったと?

英文学者の洪銀沢(ホン・ウンテク)大真(テジン)大学教授が季刊詩専門紙「詩評」冬号に寄稿した「タゴールに対する不便な真実」を見ると疑問の相当部分が解ける。
洪教授は考証を通じ、「東方の灯燭」の15行のうち最初の4行は詩というよりメモ形態で1929年に朝鮮に伝えられたものであり、残りの11行は誰かがタゴールの作品「ギーターンジャリ」35節を付け加えて仕立てたものと分析した。
しかも「わが心の祖国コリアよ目覚めて下さい」という最後の一節は誰かが「ギーターンジャリ」の原文にもない「コリア」を入れ脚色したものと指摘した。
ノーベル賞受賞者の権威に寄りかかったとんでもない“片思い”が日帝時代、そして解放後も長く続いたことになる。 

引用ソース
https://japanese.joins.com/article/704/164704.html?servcode=100&sectcode=140