[李承晩TV慰安婦の真実①] 「日本軍慰安婦、6.25韓国軍慰安婦と本質的に同じ」

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[李承晩TV慰安婦の真実①] 「日本軍慰安婦、6.25韓国軍慰安婦と本質的に同じ」

「慰安婦は戦争の文化…前線は誰もが歴史の犠牲者」

オムンヨン記者


李承晩学堂のイヨンフン校長(元ソウル大経済学部教授)が日帝時代の慰安婦の真実を知らせる講義を開始した。
最も敏感な慰安婦問題から韓国人の「反日種族主義」に本格的なメスを入れるものである。

2 月14日の初講義(6.25戦争と韓国軍慰安婦)は、6.25 戦争当時存在していた韓国軍慰安婦をテーマにした。
韓国軍慰安婦は、日帝時代の日本軍慰安婦と本質的に変わらないという内容だ。
なのに日本軍慰安婦問題にだけ怒っている韓国人の非一貫性と反日感情を厳しく批判したものだ。

「反日種主義の根はシャーマニズムとトーテミズム」

講義でイ校長は、韓国人の反日種族主義的な精神文化が日本軍慰安婦問題の解決を妨げていると指摘した。

彼は「過去、朴槿恵政府が日本の安倍政府と締結した(韓日慰安婦合意)協約を、最近ムンジェイン政府が破棄した」とし 、「日本はこれに強く反発しているのが実情」と説明した。
彼は、慰安婦問題が完全に解決しない原因について、「『紛争の継続』 自体を目的とする韓国人の精神文化のせいではないか」と嘆いた。 

まさにこの精神文化について、イ校長は「反日種族主義」と規定した。
彼は「種族主義は絶対で無条件の敵対感情」とし「深い根はシャーマニズムとトーテミズムの世界にある」と指摘した。  

続いて「そのような精神世界は非科学的で閉鎖的で、自国の歴史に対する客観的な理解を欠如させる」と述べた。
結局韓国人は、 「日本の文化や歴史について無知で、いろいろな種類の偏見と誤解にとらわれていて、さらに世界史を進歩に導いた近代文明の原理が何なのかについてまったく考えない無知蒙昧な状態」と厳しい忠告を与えた。 

「慰安婦『3万人説』、『性奴隷説』の再考が必要」

イ校長は日本軍慰安婦問題と関連し、自らの一貫した視点と見解を提示した。

去る2015 年、YouTube 「ジョンギュジェTV」で、「6.25戦争当時、韓国軍と米軍にも慰安婦がいた」、「15〜19 世紀の朝鮮時代にも軍慰安婦がいた」という趣旨で講演した彼は、その放送で  「 1917年に総督府が実施していた公娼が廃止された後(1947年)も、民間慰安婦がいたし、そういった慰安婦は今日も存在している」、「このような慰安婦の発生‧ 存在形態‧ 性格は、基本的には同じである」と主張した。

イ校長はこういった自らの過去の講演を紹介しつつ、「(私はジョンギュジェTV で)日本軍慰安婦に従事していた朝鮮人女性が3〜4 万人、または20万人といわれている従来の通説を否定し、約4000〜5000人程度だと推算した」と説明した。 

続いて「日本軍慰安婦が性奴隷という従来の通説も、再考する必要があると主張した」とし、「3年前のその講義を、今から15回にわたってさらに幅広く細かく解説する計画だ」と明らかにした。

韓国軍慰安婦は数万人に達していたかもしれない…一人一日に6人相手

イ校長はこの日の初の講義が、漢城大のキムグィオク教授の韓国軍慰安婦関連の論文の一部を基にしていると明らかにした後、本格的に6.25戦争当時の「韓国軍慰安婦」について説明し始めた。

それによると、1951年ごろ、韓国軍は将兵に性的快適さを提供する特殊な慰安村を設立した。
将兵の士気を盛り上げ、かれらが性欲求を解消しないことによる副作用を予防するという目的だった。

特殊慰安村は、江陵、春川、原州、束草それぞれの1個中隊、そしてソウルの3つの小隊に置いた。
各小隊に所属している慰安婦は平均20人で、1個中隊は8個小隊で構成されていた。
これを総合すると、特殊慰安村に属していた慰安婦の総数は約700人程度と推定される。

この700人という数字について校長は、 「特定の時点で把握された絶対数であり、これより長く、あるいは短くいた女性の数は、それよりも数倍、数十倍といえる」と説明した。

続いて1952年当時、韓国軍の特殊慰安村のソウル第1、2、3 小隊と江陵第1小隊の慰安村の実態を示す表を提示した。
この表によると、この4つの小隊に属する98人の慰安婦は、1952年の一年間で20万4560人の将兵の相手をした。
これを計算すると慰安婦は、一人一日平均6.3人の将兵を迎えたという結論が出る。 

「それは戦争の文化…前線は誰もが歴史の犠牲者」

講義では、ある予備役将軍の韓国軍慰安婦関連の証言も紹介した。
イ校長は、「韓国軍慰安婦を最も詳細に回顧したのはチェミョンシン将軍」と説明しつつ、彼が執筆した「死線を越えて」という回顧録の一部を朗読した。

「第5連隊が前線から後方へやってきた。将兵たちは、世界中の慰安婦について話をして盛り上がった。私は戦功をあげて勲章をもらった将兵に、チケットを優先的に配分した。パクパンド軍曹である。年齢は19歳に過ぎず、まだ毛がサラサラの少年だが、輝かしい貢献を立てて武功勲章を受けたのだ。チケットを受け取ったパクパンド軍曹は童貞だった。彼は慰安婦のテントに入ることを頑強に拒否したが、他の隊員が無理やり入れた。隊員たちはみんな、どうなるかとテントを覗いてみた。慰安婦の女性はパクパンドのズボンを脱がそうとしていた。パクパンドは逃げていたが、狭いテントの中なので、すぐに慰安婦に捕獲された。パクパンドが童貞だと知った慰安婦は、いたずらのように彼のものに触ると、パクパンドの顔が赤くなり、テントの外へと逃げた。隊員たちは逃げてきたパクパンドを徹底的に教育した。翌日パクパンドは、再び試みた末に、最終的に成功した。私たちの部隊が再び戦線に投入された時、パクパンドは残念ながら戦死してしまった。私は心が痛かった。パクパンド軍曹は1階級特進して忠武装飾を受けた。」

イヨンフン校長は回顧録を読んだ後、「この悲しい出来事について、部隊長のチェミョンシンを非難しないように望む。彼(チェミョンシン)は敬虔なキリスト教信者だったが、部下の将兵に慰安婦を提供することになんの罪悪感を感じていなかった。それは戦争の文化だった」とし、「その前線では、誰もが歴史の犠牲者だった。テントの中の慰安婦も悲しい人生だが、19歳で戦死したパクパンド軍曹の人生も同じく悲しい」と述べた。

イ校長は、「パクパンド軍曹が、乱暴な兵士として、弱い女性の性を略取していたと言えるのか?」と反問し、「私はそうじゃないと思う。誰にも断罪する資格などない。連隊長も分隊長も慰安婦も、みんな彼らが置かれた環境の中で生き残るためにもがいていただけだ」と話した。

イ校長は、「私が軍慰安婦制度を正当化していると非難しないように願う」とし「私は人間の歴史の矛盾性の複雑さ、現在も存在しているその同時代性について指摘しているだけだ」と強調した。
それとともに「歴史は決して道徳的な批判や断罪をするものではない」とし「歴史はあったという事実を可能な限り公正かつ客観的に叙述し、伝えるだけのものだ」と力説した。

「軍部隊をめぐる民間の売春はまだ存続」

イ校長は、「1954年3月に特殊慰安村は一斉に閉鎖されたが、軍部隊周辺の売春が消滅したわけではない」とし「軍部隊をめぐる民間の売春はまだ存続し、繁栄し、それに携わった女性たちも慰安婦である」と話した。

彼は「1955年に政府は、保健社会統計を作りつつ、民間売春女性を慰安婦と規定して呼称した」とし、「このように、6.25 当時の特殊慰安村の慰安婦は、民間の慰安婦が営業する場所を部隊内へと移したにすぎなかった」と強調した。 

続いて「当時国軍は、特殊慰安村を作ることに、なんの問題も感じていなかった」とし、「多くの面で軍慰安婦と同じ約6万人の民間慰安婦が、広範囲に存在していたからだ」と力説した。

引用ソース
http://mediawatch.kr/news/article.html?no=254002





*日本から独立した後の韓国のこの時代の慰安婦、売春業について、韓国ではいまやほとんど語られることもない。時代的にはずっと近いというのに。

「慰安婦は普遍的な女性の人権問題」という韓国側が国際社会に訴えるときの決まり文句が馬鹿馬鹿しいといえる最大の理由です。