挺対協が中心となっている慰安婦問題、何が真実なのか? (5)

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挺対協が中心となっている慰安婦問題、何が真実なのか? (5)

メディアウォッチ編集部


5、ムン○○おばあさんの証言

ムン○○おばあさんは、1992年に下関郵便局を相手に「戦時郵便貯金の払い戻し訴訟」を提起して、しばらく話題になった人である。
自分が慰安婦として働いていた部隊名や、滞在していた旅館、親戚の家の店の住所まで正確に記憶しているほど賢い人で、証言内容も具体的で、非常にドラマチックな側面がある。

しかし残念なことに、この人についても、証言内容が資料ごとに違っている面があって、確認する必要がある。
ムンおばあさんはまず、挺身隊被害申告時には、慰安婦になった経緯についてこう説明している。


「19歳の時、知り合いの男により『行けば良い仕事があってお金も儲かる』という言葉にだまされて、1942年7月から解放後46年​​4月までの約3年6ヶ月間、『文原吉子』という名前で、日本軍についてビルマ、タイ、アユタヤなどをウロウロさせられ、慰安婦の生活で苦しめられた。(ソウル新聞、1991-12-07)」


ムンおばあさんが言及する「知り合いの男人」は、違う資料を見ると、マツモトと創氏改名をした朝鮮人の宋さんとなっている。
しかし最初にそう証言してから1年後、挺対協が発刊した証言集「強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」では、いきなり1940年に日本の憲兵によって強制連行されて、中国東北部で慰安婦生活をしたという話が追加されている。
つまり、この証言の両方を真実とするなら、ムンおばあさんは1940年と1942年の2回慰安婦を経験したわけだ。

ムンおばあさんはこれについて、挺対協証言集の末尾でこう釈明している。 
1991年にはじめて証言した当時は、中国でのことは言わなかったが、その時は恥ずかしいと思っていて、すべてを話すかどうかを迷って、南方(=ビルマ)に行ったことだけを話したということである。

しかし同時期に収録された「<証言>従軍慰安婦 - 女子勤労挺身隊/伊藤孝司著/1992」には、中国においての慰安婦経験談は抜けている。
インタビューの時点がいつなのかは分からないが、それから少し後に出た「慰安婦:日本軍の性奴隷として連行された女性/ George Hicks / 1995」でも同じだ。

1992年に日本の裁判所に提訴された「太平洋戦争犠牲者補償訴訟法廷証言」や「戦時郵便貯金の払い戻し訴訟」でも、中国での慰安婦経験の話はなかった。
ただ挺対協が出した証言集に「日本憲兵による強制連行の話」が追加されているだけだ。
では日本の憲兵の登場が、全体の証言をどのように変化させたのだろうか?

挺対協の「強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」に掲載されたムンおばあさんの強制連行当時の証言を確認してみよう。


「1940年に私は満16歳になった。その年の晩秋頃のある日、私はハルコの家に行って遊んでいた。太陽がゆっくりと沈んでいって、私はハルコの家から私の家へと向かった。しばらく歩いた。日本の軍服を着て長刀を差して、左の肩に赤い腕章をした男が、私に近づいてきた。彼はいきなり私の腕を引いて、日本語で何か言った。当時は巡査という言葉だけ聞いても怖かった時で、私は何も言えず、彼が引っぱるままに引かれて行った。その人はしばらく私の腕を掴んで引っ張っていたが、途中から私を前に出して歩かせた。連れて行かれたところは憲兵隊だったと思う。そこには私と同じ年頃の違う女の子が一人、先に来ていた。…

翌朝になると、日本の軍服を着た男が、私たちを外へ連れて行った。彼は私たちをリョクチョンに連れて行って、平服を着た日本人男性と朝鮮人へ引き渡した。私たちは、彼らと共に列車に乗った。列車名はアカツキだった。私たちはこれに乗って、二日程度かけて北に行った。途中で人々が降りていたが、安東や奉天だったのを覚えている。…中国に着いて、最初私たちと一緒だった男はどこかに行って、その後は中国語を話す人が私たちとずっと一緒だった。…夕方になって私たちは、当時の中国東北部の逃安城というところに下りた。」


考察1)日本の憲兵は赤い腕章を占めない。白い腕章である。腕章の文字が赤い色である。
考察2)アカツキは京城(ソウル)が終着地である。そして朝鮮から逃安城まで行く列車便は存在しない。
考察3)「ビルマ戦線の日本軍慰安婦ムン○○」という本の中では、日本人の憲兵に加えて朝鮮人の憲兵と刑事3人によって連行されていると証言している。つまり突然加害者の数が増えているのだ。また逆に、自分を捕まえた人について、挺対協での証言では平服を着た日本人男性と朝鮮人になっているが、「ビルマ戦線~」ではこれが日本人憲兵と朝鮮人刑事に証言が変わってる。


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▲1940年にムンおばあさんの証言をもとに、日本の憲兵に拉致されて憲兵隊に移送されたと推定される導線


友達のハルコの家が火葬場だったので、拉致が強行された場所は、現在の大邱の南山小学校付近ということになる。
当時、そこからかなり外れた場所に憲兵隊本部があった。
1934年度の大邱の地図を参照すると、だいたい拉致された経路を推定することができる。
すると、導線は約3.4kmであり、移動のための時間は成人が徒歩で40分〜50分かかる距離である。

問題は、夕暮れ時の午後6時ごろ、憲兵がいった何の用事で、憲兵隊本部から徒歩4〜50分離れた地域を歩き回り、偶然発見した少女を何の罪で憲兵隊本部へと連れて行ったのかということである。
しかも憲兵隊本部の中には、既に拉致(?)されていた違う少女が拘束されていたということだが、田舎の憲兵分所でもあるまいし、憲兵隊本部がどうして人身売買を平然と強行できるのか、理解できない。
 
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▲資料)アカツキ急行列車の運行区間

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▲資料)釜山発の急行列車の時刻表


挺対協の証言集では、アカツキ急行に乗って、大邱からすぐに中国の逃安城に行ったと証言しているが、上記の列車時刻表を見るとありえないことである。
「ビルマ戦線の日本軍『慰安婦』ムン○○」では、新義州で乗り換えて中国の逃安城へ行ったとされているが、新義州は乗換駅ではない。アカツキは新義州まで行かない。
 
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▲資料)ムンおばあさんが戦争中に郵便振込みした入金の内訳(利息を除く元金振込)


「マツモトは、私たちが与えた票を受け取るだけで、お金を一銭も与えなかった。食べものや着るもの、そして化粧品のようなものを少しだけ買いたくてもできなかった。考えた末に私たちは一致団結してストライキを起こした。その時はいつも私がリーダーになり、お金をくれなければ働かないとマツモトと交渉をした。そうやって実力行使をした場合だけ、マツモトはお金を非常に少しだけ、1ウォン2ウォン程度をくれた。それでも私は少しずつチップを集めて大きなお金を得た。友人と比較して、自分だけが大きなお金を持っているので、悪いことが起きる可能性があるかもと思い、事務をしている兵士に、私は貯金することができるかを聞いてみると、できると言われた。」 :「ビルマ戦線の日本軍『慰安婦』ムン○○」森川万智子、91p〜92p


上記の証言を信じると、ムンおばあさんは慰安婦労働の代価としてお金を受け取ったのではなく、チップを集めて貯金していたという。
入金日を見ると、最初に入金した日は1943年3月6日、500円を入金。
その後わずか4カ月で700円をまた入金した。
軍人の給料が、戦地だから多めだったと勘案しても月30円しかなく、将校でも150円未満なのに、チップをいったいどれだけ集めたら月175円になるのか、謎なことである。

日本の裁判所に提訴された「戦時郵便貯金払い戻し訴訟」の判決文を見ると、「毎晩、収入の軍票はマツモトに渡し、月1回その半額を現金で貰った」とされているが、上記の本で述べられている内容とは相反している。
どちらが正しいのかは亡くなったその人だけが知っていることである。
その人が生きていたとき、このような初歩的な検証をなぜしなかったのか、挺対協や政府の責任が大きいとしか言えない…


メディアウォッチ編集部

引用ソース
http://www.mediawatch.kr/news/article.html?no=249565







*嘘つきばっか。
前回記事とあわせて、「高齢なので記憶があいまいだから…」で済ませられるような話じゃないでしょ。ものには限度というものがある。
「高齢なので記憶があいまいだから…」とか言ってる人は恥を知れ。

真の被害者は虚偽証言によって冤罪被害をこうむっている日本の側。


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