挺対協が中心となっている慰安婦問題、何が真実なのか? (4)

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挺対協が中心となっている慰安婦問題、何が真実なのか? (4)

メディアウォッチ編集部

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▲慰安婦関連デモを行っている挺対協ユンミヒャン代表


慰安婦被害者の証言を検討してみる

慰安婦動員に関連しての日本の公式な文献資料があまりにも粗末なせいで、これまで学界の研究においては、関係者の口述資料に依存してきた。
どうしようもない限界だというのは明らかだが、口述の内容について検証せず、これを100%盲信したり、科学的根拠が欠けている統計値に基づいて結論を決めつける姿勢は好ましいものではない。

いわゆる挺対協や女性部が発刊してきた各種慰安婦被害者の証言を確認してみると、歴史的事実と合わないケースや、他の場所で証言した内容と矛盾しているケース、キャリアや時期や動員の経緯などにおいて信頼するのが難しい話がしばしば見られる。
そのうち数人かの事例は、すでにウェブ上でも広く知られている。
日本人の笑いものになる前に、きちんと整理しておくのもいいことだろう。

1、キム○○おばあさんの証言

- 慰安婦初の証言者として知られている金○○おばあさんの証言は、日本軍による強制拉致の事例として、学界でいつも引用の対象になってきた。公式証言資料集には、14歳にキーセン養成所であるグォンボンに養女として売られ、17歳でキーセンになったが、年齢が幼いので営業許可が受けられず、就職するために彼の継父と一緒に中国の北京へと行って、日本軍によって強制連行され、慰安婦になったもと書かれている。

- しかし「神が私を生かしておいたのは、私にはするべきことがあるから」という寄稿文(「新しい家庭」92年)では、「日本軍が女性を集めているという噂が流れはじめたので、養父と一緒に満州に避難していた。その途中、日本軍に逮捕された。」と記されている。中国に渡った経緯が違う。

- 一方で、日本の裁判所に提出した慰安婦損害賠償訴状では、養父に「稼げる」と説得されて、平壌で軍用列車に乗り換えて満州に到着し、そこで養父と別れたことになっている。養父が日本軍の慰安所に彼女を売ったとしか判断できない。

- 「従軍慰安婦 - 元兵士たちの証言」(西野留美子著、明石書店、1992)では、養父ではなく、村人が日本巡査と一緒にやってきて、「金儲けできる」と説得され、トラックや軍用列車に乗り、満州の慰安所に行ったとされている。この証言では継父は消えて、村人と巡査が登場する。この本の中では、「17歳になった女性は日本軍に集められる」という噂が出回って、娘を早く結婚させる風潮があったと書かれていて、自分もその処女供出を避けようとしたが、慰安婦になってしまったというような説明がなされている。

- 1991年12月25日の朝日新聞とのインタビューでは、また違うことを言っている。 「村の仕事の手伝いをする人から『そこに行けば金儲けできる』という話を聞いて、近くにいた2人の女性と共にその誘惑に負けた。」今度は日本巡査がいなくなり、村の仕事の手伝いをする人が登場している。

- キム○○おばあさんが慰安婦に売られた経緯は、以上のように、村の仕事の手伝いをする人、村人+日本の巡査、継父、日本軍隊による拉致など、行ったり来たりしていることが分かる。
誰のせいで慰安婦になったのかというのも重要だが、もし拉致のような物理的な暴力が伴たのが事実なら、慰安婦問題の性格を究明するためにあたって重大な問題であるため、これに対する明確な検証をしなければならないと思われる。


2、ファン○○おばあさんの証言

(1)慰安婦になった時点(証言記録)

・「威鏡の女学校在学中の17歳の時1939年に国民徴用令で動員され軍需工場に行くと思っていたが着いた所は吉林の慰安所だった」(朝日新聞 1995年)
・「20歳の時、村の班長が『1家で1人は日本の工場で働かねばいけない』と言われて養家の他の子供の身代わりになって志願した」(『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』での本人証言
・「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じ、私は労働者として徴用されたのだと思った」 (クマラスワミ報告)
・「14歳のとき、いわゆる『処女供出』で満州に連行され、皇軍兵士の道具にされた」 (黄錦周さんの証言を聞く会 東京大学にて)
・「19歳の時、学校を卒業する25日前に日本軍に慰安婦にされた」( TBS『ここがヘンだよ日本人』)

(2)事実関係の間違い

「解放の3年前(1942年)、15歳以上の未婚の朝鮮の娘たちを挺身隊として動員するようにという天皇の命令が下された」

女子挺身隊勤労令の公布は1944年8月23日なので、1942年に天皇が挺身隊動員命令を出したという話は事実ではない。
もちろん法令の公布以前から挺身隊動員記録があるが、日本本土においては1943年9月が初めてであり、我が国においては1944年3月から日本の工場へ女性挺身隊が動員されはじめている。


「日本の軍需工場で、3年の契約で、仕事に行けば大きなお金を稼ぐことができると…」

女子挺身隊勤労令の公布以前の官斡旋による募集は、契約期間が2年で、法令の公布以降は1年になった。
したがって最初の契約が3年間だというのはありえない。
そして、動員対象が15歳以上の未婚の処女という規定などなかった。 
12歳以上40歳未満の国民登録者で、中等学校以上を卒業した学歴や技術を必要としている点や、令書を受けなければならないという点などから判断すると、ファン○○おばあさんのように無学ないし不正夜学出身者の場合、対象ではなかった。


3、チョン○○おばあさんの証言

「ある日、私が働いていた主人の家の息子が私を強姦しようとして、私は死力を尽くして反抗し、やっとのことで逃げ出した。我を忘れて逃げて、一人で釜山浜にやって来て、涙を流しながら『連絡船は離れるよ』という歌を歌い、自分の境遇を嘆いていた。いきなり後ろから何人かの日本軍人が登場した。私は反抗できず、口と目を塞がれて、そのまま軍用トラックに載せられた。その時私は14歳(1938年)だった。」

挺対協が記録したチョンおばあさんの証言を見ると、14歳の若さで日本の兵士によって拉致された後、強制的に慰安婦にされて生活をしていたことになる。
このチョンおばあさんの証言は、日本の慰安婦募集は、公権力による暴力と強制が伴っていた事例として、学界で広く引用されてきた。

ところが、1996年3月6日の聯合ニュース「北朝鮮籍の挺身隊おばあさん、永住帰国」というタイトルの記事を見ると、違うことが書かれている。

「外交部によると、チョンおばあさんは、去る1939年14歳のとき、釜山の金持ちの家で働いていたが、身元不明のあやしい青年たちによってハルビンに強制的に連行され、軍慰安婦になった。」

拉致された年齢は同じだが、年度は1939年となり、日本の軍人ではなくて身元不明のあやしい青年たちによって拉致をされたとなっている。
日本の兵士によって拉致されたのと、一般の青年たちによって拉致されたのとでは、いろいろな面で意味が違うというしかない。

一方で、これより前の1992年7月31日の東亜日報「従軍慰安婦、政府報告書で見る全貌」というタイトルの記事では、さらに違うことが書かれている。

「1942年3月当時、私の年齢が14歳の時だった。釜山で働いていたが、ちょっと遊び行ったときに日本の巡査に捕まり、一時的に拘禁所に10日ほど拘禁され、その後に電車で満州の慰安所へと連れていかれて引き渡され、一日に15〜 20人の兵士の相手をしていた。」

やはり年齢は同じだが、拉致された年度は1942年。
拉致された経緯も、遊びに行って日本巡査に捕まえられたことになっている。
そして、軍用トラックにすぐに載せられて送られたのではなくて、一時的に拘禁所に10日ほど拘禁されてから満州に移動したと証言しており、拉致の過程もまったく違う。

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▲挺対協が主導して日本大使館前などに設置されている少女像は、実際の歴史的な記録とはまったくイメージが違うという指摘が出ている。


4、チョン△△おばあさんの証言

生前に慰安婦被害補償と謝罪を促す活動に格別な情熱を見せていたチョン△△おばあさんの証言は、残念ながら、そのまま使うには、あまりにもエラーが多すぎる。深刻なレベルである。
挺対協が記録した彼女の証言を見ると、幸いなことに序文に簡単な略歴が出ている。

◈1924年、慶尚南道河東生まれ
◈1937年(14歳)、日帝に就職詐欺で連行される
◈1938年(15歳)、釜山→下関→台湾→中国の広東省→タイ→シンガポール→サイゴン→インドネシアなど移動
◈1938年(15歳)、インドネシアで慰安婦生活
◈1945年(22歳)、解放後、シンガポールで収容所生活
◈1946年(23歳)、釜山に帰国

上記の伝記の中では、就職詐欺されて騙されて慰安婦になった時点が最も重要である。
おばあさんの口述を見ると、「12歳で捕まえらた。」と述べていて、上記の伝記上の記録においては、おばあさんの口述した内容と一致している。
しかし問題はここからである。
おばあさんが14歳だった1937年に、父親が創氏改名を拒否したてめに日本からの憎しみを買い、その後に真鍮の器の供出を拒否したので日本に捕まえられたと言っているのだ。
創氏改名は始まったのは1939年のことであり、村単位での真鍮の器の供出は1941年の公布以降のことである。

おばあさんが年代を勘違いしているのか、あるいは意図的に被害年齢を下げたのか。
「時をかけるおばあさん」の証言は続く。 
15歳だった1938年に就職詐欺にだまされ、釜山から日本の下関を経て、インドネシアに移動したと言うが、インドネシアを日本が占領したのは1942年のことであり、おばあさんの証言は重大なエラーにぶつかる。
また慰安婦の移送は、おばあさんが説明しているように、何千もの人を乗せた大きな船によって中国や東南アジア各地をシャトルしていたことなどなかった。
兵力を乗せた軍輸送船でおこなわれていたからである。

おばあさんはまた、就業詐欺の瞬間について、証言でこう説明している。

「村長がやってきて、『お嬢さん、日本の千人針工場に行って、一、二年から二年半ぐらい頑張ってくればいいでしょう』」

しかし、千人針を作る工場などない。
千人針というのは、文字通り千人の女性が下の写真のように、兵士のための福袋を1人一針ずつ縫うものであって、これを持てば戦場で銃弾被害に合わないという一種のお守りのようなものである。
これについてはおかしいということに気づいたのか、違う証言資料では千人針工場とは書かず、「紡織工場」に訂正されている。

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▲千人針を作る日本の女性



メディアウォッチ編集部

引用ソース
http://www.mediawatch.kr/news/article.html?no=249565







*こういうの、国民から受信料をとってる公共放送NHKが、きっちり整理してドキュメンタリーを作るべきだと思うんですけど。
ただし、数学や物理系のドキュメンタリーを担当してる人たちにやってもらいたい。
NHKで歴史ドキュメンタリーを担当してる人たちは、反日の歴史捏造に加担してるといっても過言ではないので。



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