1901年、ソウルは既に西洋人も感心した「近代的大都市」

このアホみたいに長いアホな記事を翻訳した私を誉めてください。苦痛すぎる。笑

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1901年、ソウルは既に西洋人も感心した「近代的大都市」

宮内府で469人が労働、近代化総括

抗日独立戦争・改革資金を確保

国が公立・私立学校を2236個設立

日本の併合後、むしろ寺子屋が増える

1901年に電信・電話・電車・電気装備

北京・東京・バンコクなどの大都市を追い抜く

ウィスキー・メガネなどの西洋のものが流通


[大韓帝国120周年]書き換える近代史<13>光武改革と宮内府

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大韓帝国の存在理由は抗日独立戦争だったが、その戦争も経済的な裏付けなしでは不可能だった。
高宗の改革哲学的である旧本新参論に基づいた近代化改革は、短い期間内で効果的に行われた。
当時の近代化政策を、大韓帝国の年号である「光武」を付けて「光武改革」と呼ぶ。
光武改革の成果も、抗日独立戦争と同じくらい見事なものだったが、その具体的な内容はあまり知られていない。

日本軍と日本公使館が覗き見ることができない「国内亡命地」慶運宮(現在の徳寿宮)に新たに配置された宮内府と元帥府は、光武改革の双頭馬車だった。
元帥府は抗日独立闘争のための国防力強化を指揮していたが(中央SUNDAY 11月19日を参照)、今回紹介する宮内府は近代化改革を総括した。
近代化事業関連の新しい機構がすべて宮内府に帰属することによって、1903年ごろ、宮内府は総人員が469人に達する膨大な部門となった。

大韓帝国が実行した抗日独立戦争と近代化改革資金は、すべて宮内府が確保した財源が当てられた。
そのためには、十分な税収の確保と徹底したセキュリティが不可欠だった。
宮内府の財政権限は、宮内府内蔵院に集中していて、高宗の最側近のイヨンイクが完全に業務を管轄していた。

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文化的近代化と学校建設の拡散

「文化的近代化」が始まったのも大韓帝国の時期だった。
政府の公文書の国文化や、国漢文化が施行された。
純ハングル新聞の独立新聞の創刊が、「国文生活」の幕を開けた。
今日私たちが使っているハングルの基本形態は、この時期にほぼ完成した。
世宗が訓民正音を創製したとするなら、高宗は国文を発展させたものである。
高宗が太極旗を国旗と宣言したのに続き、国歌やムクゲなどが自然発生的に「国家の象徴」として指定された。
これはすべて大韓民国臨時政府を経て、今日の大韓民国へと継承された。

近代官立・私立学校と各種外国語・実業教育機関がブームを成して新設された。
1909年11月の帝国の国公立と私立学校は、合計2236校だった。(大韓毎日申報1909.11.11「雑報:学校総数」)
しかし学校の設立は、1910年の日帝の強制併合以降に急激に減って、その時期からむしろ前近代の寺子屋が増えた。
1910年ころ1万6500だった寺子屋は、1919年ごろには2万3500になり、寺子屋の生徒数は14万人から26万8000人に急増した。(パクドゥクジュン「朝鮮近代教育史」213〜214ページ)
大韓帝国の時期の「教育近代化」の成果が、日本植民地時代に破壊されたのである。

大韓帝国はソウル市の改造事業を強力に推進した。
駐米公使を2年間務めた漢城府イチェヨンは、「ワシントンDC」をモデルにした。
イチェヨンはファントヒョン(現在光化門付近)〜弘仁門、広通橋〜南大門の道路幅を50隻にする道路計画法令を公布・施行した。
汚かったソウルは東アジアで最もクリーンな都市へと変貌していった。

1887年に米国のエジソン電気会社が景福宮内の乾清宮に架設した電灯は、その時点では東アジアで最も早かったし、1900年4月10日から鍾路の通りから始まってソウルのすべての通りに電気の街灯がともり始めた。
1896年10月2日には、徳寿宮〜仁川間に市外電話が開通し、ソウル市はすぐに100回線の電話を開設した。
ソウルの電話開設はアレキサンダー・ベルが1876年に電話を発明してから20年後のことであり、東京の電話の導入とほぼ同時だった。(イテジン「高宗時代の再照明」328〜355ページ)

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1899年5月に電車の運行が開始した。
敦義門〜興化門〜鍾路〜東大門〜清凉里区間をヨーロッパ式の赤い電車が毎日10分間隔で運行した。
京都とバンコクを除くと、東京(1901年開通)、香港(1904年開通)、上海(1908年開通)、北京(1924年開通)など、東アジアの大都市のどこも電車を見ることができなかった時代である。 
1881年にドイツのシーメンス社がベルリン郊外で初めて電車を商用化して以来、ソウルの電車開通は世界レベルでも早い方に属した。

1899年9月に仁川〜鷺梁津間で鉄道が開通した。
1900年7月に二村洞〜銅雀区間で漢江鉄橋が完成した。
ほぼ同時に鷺梁津〜南大門間の鉄道が完成し、京仁のすべてが開通して、一日4回京仁鉄道が運行された。
電気・電線・電車・鉄道などの近代化の速度を見ると、当時の大韓帝国は、中国を追い越し、日本にも追いついていたのだ。

当時西洋の物を売る店の項目を見ると、西洋の文物はすでに大韓帝国の中に奥深く入っていた。
ウイスキー・ビール・ワイン・グラス・鏡台・時計・パラソル・洋服・タオル・帽子・手袋・革財布・リング・ベルト・おもちゃ・レコード・西洋楽器・文房具・椅子・ストーブ・千里眼・切手・鉄道時刻表・船舶時刻表・牛乳などの西洋の食料品・旅行装備品・織機・ミシン・運動器具・自転車などを一般の人たちも購入することができた。
今日の大韓民国の国民が日常的に手に入れることができるものは、ほとんどが大韓帝国期に導入されたものである。(ヒョングァンホ「大韓帝国の再照明」232〜233ページ)

オーストリアの作家エルンスト・フォンヘッセ - バルテックが見た「1894年の夏、ソウル」の風景はひどかった。 
「男女問わずすべての住民が白い服を着ていて、汚物と糞だらけの都市」であり、「ソウルに夜が来ると、すべてが真っ暗になり、あちこちにやっとかすかな明かりが点滅しているだけ」だった。(Ernst von Hesse-Wartegg 、Korea 1894、54ページ、131〜132ページ)

しかし1901年にドイツの記者ジークフリート・ゲンテ博士が見たソウルは、光武改革から7年目で西洋人が感心するレベルの「近代的大都市」に変わっていた。
ゲンテはソウルは唯一電信や電話、電車や電気照明を同時にすべて持っていて、北京・東京・バンコクなどアジアのすべての大都市を追い抜いたとして、当時ソウルの景色をこのように描写した。 
「ソウルは素顔がますますなくなっている北京や、希釈して特徴がなくなった東京よりも、はるかに魅力的である。ソウルの街で見る人生の色は、北京よりもはるかに多彩で、その形状は東京よりもはるかに純粋である。」(Siegfried Genthe、Korea:Reiseschilderungen、227ページ)

高宗は西欧文物の受容に無条件的ではなかったが、排他的でもなかった。
それでもほとんどの歴史書は、「衛正斥邪派vs親日開化派」の二分法で韓国の近代史を叙述して、高宗と勤王勢力を衛正斥邪派にする。
大韓帝国の歪曲は、この構図から始まる。
「衛正斥邪派=守旧派」「親日開化派=改革派」と述べて、高宗と勤王勢力を守旧派に配置するのは明白なエラーである。

露館亡命後の高宗は、以前とは異なる方法で近代化改革を積極化して加速させた。
彼は一連の勅諭を通じて、これまで亡国の災いを招いた東道西器論と親日開花論の両方を批判して、旧章新規論を新しい近代化の哲学として提示した。 
「旧章に従いながら新規を参酌し、民国の利便性と関係は考慮折衝し、必ず実行に努める」(「高宗実録」1896.9.24)とした。
また「旧規を見ながら新式を参酌すること(以舊規爲本參以新式)」とし「自国法制を捨てて一律に他国の制度に追従するのがどうして改革だろうか?」(「秘書院日記」1897.1.20)と明らかにした。

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殖産興業政策と経済の近代化

旧章新規論は「国道」と「国器」を手本にするものの、「参酌」(韓国化)によって革新する新旧折衷の改革哲学だった。
これは国道と国器の両方を、民族が自主的に近代化することによって、「近代民族国家」を建設しようとする中道改革路線として、開化派の伝統破壊・反民族的開花至上主義を排撃しつつ東道西器論のことも跳ね除けた。
東道西器論は「西器」は直輸入しつつ「西道」は無条件に排斥する没民族・事大主義・班常差別・女尊男卑などの「東道」を守っていたからである。(ファンテヨン「民の国の帝国」925〜1014ページ)

ソウルの近代の変貌は、経済が持続的に成長して財源を用意することができたからこそ可能だった。
大韓帝国初期、農商工部が主管して心血を注いだ業務は堤堰の収縮を通じた農業用貯水池の建設荒地開墾だった。
同時に養蚕業にも多くの努力を傾けた。
農業・養蚕業振興政策に力づけられて、農林会社が相次いで創設された。
農林業部門の最初の会社は1899年に政府の官吏と留学生が一緒に立てた「帝国人工養蚕合資会社」だった。
合資会社という名称もこの会社が初めてだ。(皇城新聞1900.11.21)
以降、開墾会社・牧羊社・養蚕会社(1900)、農業会社(1901)、農鉱会社・人工養蚕会社(1904)などが続々と登場した。
活発に近代的な農業会社が設立されたが、乙巳条約以降、日本の侵奪が厳しくなったせいで、発展することができなくなった。

大韓帝国政府は、農業・養蚕業と商工業の振興にも心血を傾けた。
商工業教育と技術を普及し、会社設立を奨励し、外部勢力の浸透から商工を保護した。 
1896年の露館亡命から1904年までの9年間、なんと205社が創設された。
金融業11社、農林業16社、製造業18社、鉱業9社、商業67社、運輸業27社、水産業3社、請負土建業14社、その他(印刷・出版・製薬・売薬・遊興業・役務業など)分野40社だった。(チョンオヨン「韓国企業の誕生」130〜137ページ)

1910年当時、納税をする公式部門の近代企業(当時従業員100人あたり)は合わせて703社と推定されている。
商業・金融・工業・運輸交通・土建など、ほぼすべての分野で近代的企業が続々と登場した。
非公式部門の無許可中小企業まで合わせれば、大韓帝国期にすでに多くの企業がほぼ毎日生まれていたと見ることができるだろう。

大韓帝国政府は外国資本の浸透から国内の商業を保護しつつ、租税を徴収して税収を増やした。
内蔵員と官僚たちは、こうして蓄積した税収を、「官僚資本」に転換し、産業へ投資することによって、「上からの迅速な資本主義化」を開いていきたいと考えていた。
官僚資本の投資活動は、銀行設立(1898年トクリプ第一銀行、1899年大韓天一銀行)、鉄道建設、電気会社設立、たばこ製造会社の設立などだった。(イヨンハク「大韓帝国の経済政策」48〜 49ページ)

大韓帝国政府は後発資本主義国ドイツのように、保護主義の経済政策を展開しなければならなかった。
しかしドイツのように、保護関税を賦課する政策は、外国領事館の圧迫のせいで採用することができなかった。
その代わり、既存の商業団体であるトゴ・スセフェサ・サンムサなどの独占権を許可することによって、外国資本の市場蚕食から国内商工業を保護した。(ファンテヨン「民の国の帝国」1054〜1055ページ)

アメリカ人宣教師ホーマー・ハルバート、イギリスのデイリーメールの記者のカナダ人フレデリック・マッケンジーなどは、光武改革の成果を積極的に認めた。(Homer Hulbert、The Passing of Korea、456ページ。Frederic McKenzie、Korea's Fight for Freedom、62〜63ページ)
知韓派の欧米人だけではなかった。
大韓帝国を何とか削り下ろそうとしていた日本高官の発言も注目される。 
1900年2月19日、日本公使の林権助が青木周蔵外務大臣に「およそ商業上、当局(韓国)の地位は…単純な商業時代から工業時代に入るに至り、さらに世界競争の領域に臨んでいる」と機密報告をした。(「日本公使館記録」1900.2.19)
1904年10月29日には「韓国の貿易は毎年多少の消長はあるが、発達の傾向が顕著である」という報告もあった。(イテジン「日本も光武近代化の成果を注視していた」150ページ)

大韓帝国の経済成長は、各種統計の記録でも証明されている。
1897年から1905年までの大韓帝国政府の歳出予算を見ると、大韓帝国は創建9年で予算が約4.6倍に増えた。
経済規模がそれだけ増えたということを間接的に証明しているのだ。(イユンサン「1894〜1910年の財政制度と運営の変化」「表:1900年前後の歳出予算と軍事費の規模の増加傾向」)

1990年代以降、ロシアの文書が初めて公開されて明らかになった大韓帝国の輸出の増加状況も参考にするに値する。
大韓帝国の貿易総量は1901年に1800万円を上回っていて、1904年に二倍になり、1910年には6000万円に迫った。
大韓帝国の1910年度の輸出額は、1901年に比べてなんと5.4倍以上増加した。
韓国の主な貿易相手国は日本、中国、ロシア、米国、英国などだった。(パクジョンヒョ編訳「ロシアの国立文書保管所所長韓国関連文書要約集」513ページ)

長年、経済協力開発機構(OECD)経済統計の責任を引き受けていたアンガス・マディソン(Angus Maddison)の統計もある。
マディソンが2012年に算出した韓・中・日の各国の1人当たりの国内総生産(GDP)統計を見ると、韓国経済は遅くとも開港のはるか前の1869年以前に最低ラインを通過して、大韓帝国期全体で高度成長が行われた。

マディソンの統計によると、1911年、韓国は1人当たりの国民所得は815ドルで、アジア4位に上がった。 
1915年、韓国は1人当たりの国民所得が1048ドルに達し、米国統治下のフィリピン(875ドル)とオランダ治下のインドネシア(866ドル)も超えて「アジア2位の経済大国」となった。(ファンテヨン「民の国大韓帝国」1060〜1062ページ)

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1911年の1人当たりの国民所得は815ドルでアジア4位

1906年以来の日本統監府の政策が大韓帝国の高度成長に影響を与えたのではないか。
目賀田種太郎財務アドバイザーが赴任した当時、日本政府から受けた訓令が「大韓施設綱領」(1904年10月、日本閣議決定)だったが、ここには大韓帝国の経済を振興できる殖産興業政策や開発投資計画などまったく含まれていなかった。 
「大韓施設綱領」の中で、経済関連の項目は、「財政機関を監督して整理すること」「交通・通信機関を掌握すること」「拓殖を計画すること(韓国の領土や未開地を略奪し、日本人の移住定着を促進すること)」だけだった。(キムウンテ「日本帝国主義の韓国統治」119ページ)

1911年の815ドルは純粋に大韓帝国の経済性を示す統計だという話である。
1915年ごろの1048ドルも、大韓帝国が造成した経済跳躍の余波が続いた結果だった。 
1911年から1914年までの5年間、日本総督府は、殖産興業政策や開発投資などまったくせず、無断政治に基づく土地略奪、経済構造の歪曲(植民地隷属化)のみに腐心していたからである。

1915年に1人当たりの国民所得が1048ドルに達した韓国の生活水準は、当時のヨーロッパと比較しても注目に値するものだった。
1915年の英国の1人当たりの国民所得は5288ドル、米国4864ドル、フランス3248ドル、ドイツ2899ドル、オーストリア2653ドル、イタリア2070ドル、スペイン2033ドル、ポルトガル1228ドル(1918年には1150ドル)、ギリシャ1143ドル(1916年は972ドル、1917年は848ドル)だった。
1915年当時の韓国の生活水準は、西欧の辺境国(ポルトガル・ギリシャなど)と対等だったり、ものすぐこういった国を追い抜く勢いだったのだ。(ファンテヨン「民の国の帝国」1060〜1065ページ)


・諮問の専門家や機関
ハンヨンオ・ソウル大名誉教授
イテジン・ソウル大名誉教授
ファンテヨン東国教授
ソヨンヒ韓国産業技術大教授
徳寿宮帝国歴史観
ソウル市立大博物館

・参考資料
「民の国の帝国」(ファンテヨン・2017)
「韓国企業の誕生」(チョンオヨン・2011)
「大韓帝国の経済政策」(イヨンハク・2010)
「ロシアの国立文書保管所所長韓国関連文書要約集」(パクジョンヒョ編訳・2002)
「高宗時代の再照明」(イテジン・2000)
「日本も光武近代化の成果を注視していた」(イテジン・2008)
「1894〜1910年の財政制度と運営の変化」(イユンサン・1996)
「大韓帝国の再照明」(ヒョングァンホ・2014)
「日本帝国主義の韓国統治」(キムウンテ・1986・1999)
「朝鮮近代教育史」(パクドゥクジュン・1989)


引用ソース
http://news.naver.com/main/ranking/read.nhn?mid=etc&sid1=111&rankingType=popular_day&oid=353&aid=0000028827&date=20171203&type=1&rankingSeq=1&rankingSectionId=103


*全文につっこみを入れたい気分だわ。
そもそも上に書いてることの大半は高宗の
光武改革(中途半端で何一つ成功してない)で行われたことではなく、ほぼすべて日本が日本のお金でやったことです。日本資本の銀行、日本が設計して日本人運転手が走らせた電車、、、書いてたらキリがない。


ただ、さすがに酷すぎてコメント欄で韓国人がつっこみまくってますね~








韓国人のコメント


・度を越えたグクポン(*国+ヒロポン/愛国中毒)である。
インターネットをちょっとだけ探しても、20世紀初頭のニューヨーク、シカゴ、ロンドン、パリの写真が出てくる。
彼らがソウルを称賛した?エヒョ…
正直、私たちはあまりにも遅れていた。
客観的な事実を基にした歴史観じゃなくて、このようなナンセンスなグクポンに陥っていたら、まともな未来なんてない。
共感1558 非共感94


・笑わせるな。
当時の記録を探してみると、世界中でこんなに汚くて遅れていて野蛮なところはないと異口同音に言っている。
共感921 非共感64


・7-80年代なら、こんな記事も信じただろうが、今は情報があふれるインターネット社会です。
発展の要素があったのは事実だろうが、それを全体に拡大解釈してはならない。
共感756 非共感40


・全都市の背景画像ではなくて、ごく一部の飾られた空間だけを提示して…
若い学生がこれを学ぶんだと思うと怖い。
共感79 非共感6


・旧韓末に西洋の宣教師が韓国に来て並んでいるわらぶきの家を見て言った。「ああ、この国は本当に金持ちだね。家畜がこんなに多いなんて」
しかし、わらぶきの家から人が出てくるのを見て、口をぎゅっと閉じたという。
実話である。
共感71 非共感4


・記者は植民地近代化論に反論しようとしたのだろうが、常軌を逸してるよ。ふふふ
共感55 非共感1


・私も90年代のグクポン教育を受けた人間で、グクポンにはかなりの免疫ができていると思っていたが、久しぶりにショックだ。
こんな記事を書いたら、無能な朝鮮王朝高宗の下で苦しんでいた先祖たちに申し訳ない気持ちにならないのか?
何百年も前の先祖ではなく、曽祖父の時代の話なのに…
米国がマンハッタンに自由の女神像を立てて高層ビルを立てていた時代に、木造家屋や土作りの家を建てて住んでいた連中を見て、西洋人が感心?
ニューヨークが地下鉄工事をしているとき、他の国からお金を借りて電車を導入したのが近代化か?
共感45 非共感3


・朝鮮は歴史上最悪の国だった。ふふふ
儒教思想が今も国を醜くしている。
共感50 非共感12


・記者よ、お前が上げた写真だけ見ても、汚くて立ち遅れた所なのに、電車一つで日本を追い上げていたって?
同時代の日本の東京の写真を探してみろ。ふふふ
共感38 非共感1


・みんな怒ってコメントを書いてるね…
本当にコメントを見たら分かるように、建築物のいくつかをもって西洋式近代化云々って何?
その時代、韓国がどれだけ憂鬱な時期だったのか知らないのか?
すべて日本の影響を受けたんだけど?
共感38 非共感2


・ふふふ、北朝鮮がicbmと平壌の一部の写真を示して「我が国は超大国」と紹介するのと何が違うのか…
共感25 非共感1


・大きな改革に成功した高宗と朝鮮帝国だったが、それを飲み込んだ日本がもっとすごいということか?
必死で朝鮮を浮かべたところで、結果はドブというのは変わらないのに、なぜこのようなことを?
ただ淡々と、その時の韓国人がなぜ植民地支配されたかということを分析し、それを繰り返さないように教訓として刻むという考えを持つべき。
共感20 非共感1


・1915年に国民所得が1048ドル?ヨーロッパと国民所得が似ていた?ここ、笑うところか?
1910年に日韓併合を受けたし、朝鮮にいた日本人の所得のみ集計して出てきた所得で欧州と似ているといい、ヨーロッパ諸国と生活水準が似ていたというのは本当にとんでもない。ふふふ
その時、国民所得の集計は経済活動をする人だけ集計する方式だったが、その経済活動をする人々は、すべて日本人か親日派たちだった。
一般庶民はお金というものに触れたことさえなくて、物々交換していた時代だった。
これで国民所得のタワゴトを言うとかデタラメだ。ふふふふふ
共感19 非共感1


・記事を削除しなさい。
こんな捏造記事、あまりにも痛ましい。
世界で最も未開だった朝鮮末期を賞賛する人はいません。
日本に追いつく直前だった?笑わせるな。
共感18 非共感1


・李完用よりも悪いやつが高宗である。
高宗と明治天皇は同じ年齢じゃないの?
明治天皇が日本を近代化させてアジア初の帝国主義国家を作っていたとき、高宗は宮廷で毎日パーティーしていた。
私たちも日本のように近代化に成功していたら、ロシア帝国の南下のダークホースとして、英米帝国が日本ではなく朝鮮を選択した可能性もあった。
そうすれば満州が朝鮮の地になっていた。
指導者が馬鹿だったので、国土拡張の機会も逃して国が滅びたのである。
共感16 非共感0


・ふふふ、ここまできたら病気ではないか?
共感16 非共感1


・日本が朝鮮を近代化させた。これが事実である。
共感14 非共感3


・ドイツで熱力学の法則が完成し、米国が特許制度を完備していたとき、韓国は?
喪服を何年着用するかをめぐって戦っていた。
壬辰倭乱以後の朝鮮は、大韓民国の史上最悪の黒歴史だ。
共感11 非共感0


・まだ大韓帝国を美化するのか。
大韓帝国は、満州やハワイと同じだ。植民地化の前段階で、正当性を確保するために日本が建国したもので、典型的な傀儡政府に過ぎない。
大韓帝国、満州、ハワイ、すべて親日派や親米派の議員だらけの傀儡議会が作られて、後に合併条約に賛成する形式で植民地になったんだ。
共感11 非共感0


・路上がウンコだらけだったのに、何言ってんの。
共感11 非共感0


・旧韓末の韓民族の生活がどのように悲惨だったか、政治家がどれだけ腐っていたのか、当時国際情勢にどれだけ無知だったか、少しでも勉強した人なら、韓民族が他国の植民地に転落したのは当然という事実がわかる。
しかもロシアではなく日本の植民地になったことが不幸中の幸いだということを認めざるを得ないだろう。
私たちは日本の植民地だったので、日本の敗北と同時に自然に解放されたことを知るべきである。
もしロシアの植民地だったらとんでもないことになっていった。寒いシベリアに強制移住させられて、民族自体が抹殺されたものである。
共感11 非共感2


・犬の糞のようなグクポン記事だな。言葉も出ない。ふふふふふふ
そしてヘル朝鮮の近代化は、すべて日本がしてくれたものだ。
共感9 非共感0


・当時朝鮮を旅行していたほぼすべての外国人が、朝鮮人の衛生状態や道が世界最悪だと記している。
共感9 非共感0


・笑わせるな。
ゴミ国家だった朝鮮を美化するのをやめろ。
韓国は5000年ずっと最悪の国だったが、朴正煕大統領の後に大国になったんだ。
共感11 非共感3


・誇張が激しいですね。
上下水道もなかったのに…
共感9 非共感1


・嫌な記事を書かないでください。ふふふ
日本をいくら嫌いでも、李氏ゴミ朝鮮を打破して近代化させたのは99.9%日本である。
共感8 非共感0


・国防予算が皇帝の小遣いより少なかった国。
共感8 非共感0


・国の誇りを上げるためには、少しの誇張も必要だろうけど、これはひどすぎじゃないですか?
1911年の国民所得云々を言っているが、この時はすでにすべての実権を日本が掌握していて、私たちに何ができた?
電車は朝鮮人の純粋な技術ですか?
日本が朝鮮侵略のため、事前に計画して導入したものを、まるで私たちが独自にすべてしたように書くなんて、度が過ぎています。
事実をありのまま認めましょう。
共感8 非共感0


・インターネットに「旧韓末の1900年、朝鮮はGDPの850ドルという驚異的な超経済大国だった」という詐欺グクポン学者による研究が上がっているが、それを見て記者が記事を書いたのだろう。
詐欺グクポン学者一匹が間違った資料で扇動したものなのに、まともに見分けることもできず、グクポンがでたらめを拡散した。
共感8 非共感0


・紀元前ローマにもあったバスの施設と上下水道システムさえなかった汚れたヘル朝鮮。
紀元前ローマにもあった貨幣さえなく、日本第一銀行が朝鮮のウォンを最初に発行したほど未開だったヘル朝鮮。
紀元前ローマにもあった流通業がなく、技術者が原料採取から営業まですべてしていた野蛮な糞朝鮮。
精神勝利もほどほどにしましょう、未開人たち!
共感8 非共感1


・ファックユー
共感7 非共感0


・朝鮮を訪れた西洋人は、食堂はおろか旅館さえない現実に驚愕を禁じえなかったし、朝鮮の唯一の都市だった漢陽の王宮前がウンコだらけだという事実にもう一度驚いたのです。
朝鮮は国家のレベルでもないゴミ箱でした。
共感7 非共感0


・本気で記者を引き裂きたい。何を考えているのか。
共感8 非共感2


・「1899年には中国を越えて日本に追いついていました。」
ハハハ…
共感6 非共感0


・はい、次のグクポン記事~~~
共感6 非共感0


・大韓帝国に国名を変えたのは日清戦争の「下関条約」のおかげ。
中国の冊封国だった朝鮮を近代化したのは日本。
国民所得1000ドルは記録の誤り。証明されています。
共感6 非共感1


・すべて日本が設計して造ったものじゃないの。
ヘル朝鮮は撤去するのに忙しい。ふふふ
共感5 非共感0


・「朝鮮人は、日本人や中国人と同じレベルで物事を把握する能力がない。もし物事をしっかり見ることができたとしても、腐敗がひどすぎて、自力で素晴らしい社会を作って守っていくことができない。朝鮮人が持っている人種的な欠陥と、古くて後れた政治・社会制度のせいで、外部の力に依存せずに後進状態を抜け出すのは難しい。」
これ、桂タフト条約締結時にセオドア・ルーズベルト大統領がジャーナリストに書いた手紙だ。
米国大統領は正確に朝鮮を見抜いていた。
共感5 非共感0


・あれこれ問題が多い記事だが、確実に2つはおかしい。
1、99年9月に開通した京仁鉄道は海外資本で建てたものであり、その資本の主体は日本の会社。
2、1900年2月19日の在日本公使の秘密電報は、日本が積極的に韓国に経済進出する必要性を主張する内容であって、本当に韓国が経済発展していたからそういうレポートを書いたのか省察が必要です。
共感5 非共感0


・朝鮮は日本第一銀行が朝鮮ウォンを発行するまでしっかりとした貨幣さえなかった。
共感5 非共感0


・朝鮮人は糞や尿を食べていた民族である。
衛生の理解度が不足していた。
共感5 非共感0


・大韓帝国は日本のお金で建物を建てて、日本の技術で鉄道を敷いた。それが近代化か?
共感3 非共感1