沈寿官「日本に連れてこられてから400年以上…根の肯定が誇りを生んだ」

170530_1716~02



沈寿官「日本に連れてこられてから400年以上…根の肯定が誇りを生んだ」

【東亜日報】

【土曜話題】「朝鮮陶工」の血を引く14代目、沈寿官インタビュー

「韓国も秋でしょうね。一度だけ、また見ることができたなら…」

90歳を過ぎた14代の沈寿官翁は、記者が訪れた二日間で10回以上も韓国の秋の話をした。
その澄んだ平静ながらも寂しさが感じられる秋の天気が懐かしいとして、ぜひもう一度行ってみたいのが、うまくいくか分からないと…。

先月30日に訪れた沈寿官陶窯は、日本の西南端の九州の南西美山に位置している。
1598年丁酉再乱時、全羅北道南原から連れてこられた陶工の末裔たちが、400年以上ここで村を成して生きてきた。
最近でも鹿児島空港から2時間ごとのバスに乗って1時間半、そこで再びタクシーに乗らなければ到着できない奥まったところである。

「私が成し遂げたすべてのことは、父の夢」

彼は400年以上前の朝鮮から連れてこられた沈當吉の14代の孫である。
沈寿官は薩摩(現鹿児島)にひとまず所属して、士族(サムライ)のもてなしを受けて、子々孫々に陶磁器を伝えてきた。
今は日本で有数の陶磁器の名家だ。
明治維新期に家業を輝かせた12代沈寿官の業績をたたえて、以降子孫がその名前を継承している。

1926年生まれの14代は、最近もほぼ毎日陶窯を訪ねる。
1999年に夫人が先に亡くなった後、陶窯から近い自宅で愛犬のコタロウと一緒に生活している。
長女の清原正子(61)さんが毎日立ち寄って食事や生活を助けている。
14代は作家司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」(1969年出版)の主人公としても広く知られている。

彼は、自分が一生をかけてしたことは、実は父の13代の夢をかなえる過程だったと言う。

「登り窯(斜面に階段状に作られた陶器窯)も、収蔵庫も、工房も、すべて13代の念願でした。(父が)1964年に亡くなるまで暮らしが厳しかったんですよ。お金があればこれができるのに、あれができるのに…そのような話をそばで聞いて育ちました。」

当代日本最高の知識人で作家の司馬遼太郎の好意とアドバイスが沈寿官陶窯を育てるのに大きな助けとなった。
作家は彼に普通の人の一ヶ月の給料程度の価格帯の作品を作ることを助言した。
余裕ができた1970年の初め、彼は最初に日本式茶室から作った。
しっかりとした茶室を作るため、茶道の宗家裏千家に設計を任せた。
司馬がこれをマスコミに知らせた後、日本の茶道界で「沈寿官の茶室でお茶を飲んで来なければ茶人ではない」という話が回るほど大きな話題になった。

「そうときたら(お茶を飲みにきたら)、それだけでは済みません。当時私が作った茶碗(茶器)の価格が3万円ほどだったのに、誰もかれも買おうとしたので価格が9万円まで上がりました。」

0000209056_009_20170615044255668


陶器もブランドマーケティング

日本有数の文化人たちとの交流を増やしながら、沈寿官陶器の値はますます上昇した。
そうして先代の借金を返済し、窯を増やし、工房を建て、先祖代々受け継いできた作品を保存・展示するための収蔵庫まで完成させた。
2階建ての収蔵庫の建物は、莫大なお金をかけて、どんな地震でも揺れないよう丈夫に建てられた。
初代沈當吉の「火計り(朝鮮から陶土・釉を持ち込み帰化した陶工が制作したもので窯の火だけが日本のものという意味)茶碗」をはじめ、先祖が作った作品を展示している。

彼の語る逸話は、1980年に完成した収蔵庫には、一家の願いがどれだけ込められていたのかをよく示している。

「工事が80%程度進行したが、母親が病院に入院し、今日明日の命でした。医師に隠れてこっそり母を車に乗せて工事中の建物に背負って上がっていきました。母親が突然降ろしてくれといって、フラフラする足で立って、万歳を三回叫びました。そうして座り込んで泣き始めました。母の夢も父の夢と同じでした。再び病院に連れて行く車の中で、私たち母子は何も言わず、胸が張り裂けそうな心を分かち合いました。」

父の13代は、京大法学部を卒業した後、塗工の生活を続けた。
時代は戦争で混乱した。
戦争末期、血気旺盛な息子が「友人のように士官学校に行きたい」と言うと、父は庭の木を指して話した。「その木は自ら望んでここに生えているわけではない。山なら自由に育っただろう。しかし今は、植えられた場所で最善を尽くして命が尽きるまで努力している。私たちもその木と同じだ。」
この言葉は彼が陶工の生活を完全に受け入れるきっかけになった。

「息子よ、1998年をよろしくお願いする」

父が1964年に亡くなって残した遺言は、「1998年はここに来て400周年である。それをよろしくお願いする」だった。
彼はその後30年間、薩摩焼伝来400年祭をどのように成功させるか、工夫して準備した。

最初の夢は「朝鮮の火種」を美山へ持ってくることだ。
初期の先祖が朝鮮から陶土・釉を持ち込んで日本の窯の火だけを借りて作ったものを火計りと呼んだが、今度は故郷の火を持ってきて、日本の土と技術で陶器を作りたくなった。
結局 1998年南原から採取した火種を美山へもちこんだ。
火種は今も美山陶遊館で燃えている。

もう一つは帰郷展だった。
一度も鹿児島を離れたことがなかった収蔵庫の陶器も故郷が懐かしいだろうと考えて、ソウルでの展覧会を企画した。
この夢は1998年7月から、東亜日報イルミン美術館で開かれた「400年ぶりの帰郷-日本の中に花を咲かせた沈寿官家陶芸展」で結実しだ。
約5週間で5万人が観覧する盛況を成した。

「展示会は実際、私には大きな冒険でした。イベント前の数ヶ月、睡眠もまともにとれないほど心配が多かったです。」

韓国での展示会の計画が知らされると地域メディアが大きく反対した。
収蔵庫の140余点は薩摩焼の歴史を知ることができる唯一のコレクションだが、ややもすると事故でも起きて、それを丸ごと失う可能性があるという懸念だった。
沈寿官が先祖が作った陶磁器を丸ごと美山の外へ持ち出したのは、それが最初で最後だった。

400年祭を正常に終えた夜、イベントまで空けなかった酒を飲み、横でご飯を食べているの息子を見つめた。
当時息子の年齢は39歳。
自分も38歳で当主を受け継いだ。
「来年の成人の日に当主を譲って一線から引退する」と宣言した。
72歳の時だった。

最近彼は「90を超えた今、生涯の宿題はすべてした」と言う。
「孫の16代まで陶窯に入っています。その後をどのように準備するかは15代に任せるだけです。」

文化は分かってくれる人がいてこそ輝く

韓国陶磁器が日本で花開いた理由を彼に尋ねると、「日本に茶道があったから」という回答が返ってきた。
茶道のおかげで、陶芸をダイヤモンドのように扱う文化が日本にあって、陶芸家が花を咲かせることができたという説明だった。

茶文化は中国で開始され、朝鮮半島を経て日本に渡ったが、日本はこれを道の境地に引き上げた。
茶道の全盛期だった壬辰倭乱当時、朝鮮の茶碗は城の一つと置き換える程度の価値を持った。
壬辰倭乱が「陶磁器戦争」と呼ばれる理由だ。
1867年のパリ万国博覧会に出品された朝鮮陶工の作品が西洋人を驚かせた。
以後薩摩焼は世界的な名声を得て輸出されていった。

朝鮮が軽視していた陶工を、日本は士族として迎えておもてなしして、そのなかで技術を磨き上げた職人は、西洋社会のジャポニズム(19〜20世紀初頭のヨ ーロッパで日本美術文化を楽しんで好まれた現象)の風を巻き起こし、日本の近代化に影響を与えた。
このようにして作られた日本の近代化と富の蓄積が、最終的に帝国主義につながるので、皮肉な循環ともいえる。

佐藤の揮毫「默而識之」の意味は?

14代は安倍晋三首相の一族が韓半島から渡ってきた渡来人だということを推定させる言葉を聞いたことがある。
1964年〜1972年の首相を務めた佐藤栄作からである。
今彼のリビングルームには佐藤元首相が書いた揮毫がかかっている。
「默而識之」という字のそばに「沈寿官先生に 甲寅年春 栄作」という署名が記されている。
甲寅年は1974年を意味する。

14代は佐藤元首相がこの揮毫を書いてくれた日を昨日のように覚えている。
佐藤元首相はお茶を受けた後、「良い茶でした」とあいさつして、「沈寿官氏は何代目ですか」と尋ねたという。
「14代です」と言うと、「私はもう少し短いです。あなた方は慶長(1596〜1615年)にきたが、私たちの先祖はその後にきたようです」と言ったのだ。
それから筆と硯を出して字を書いたというものである。
默而識之は、言葉がなくても知っていることはみんなに通じるという意味である。

これに対して14代は「その言葉の真偽を確かめてみなかったが、佐藤首相の故郷の山口は、昔から朝鮮半島との交流が最も活発だった地域という話だろう」と述べた。
佐藤栄作は安倍現首相の母方の祖父の岸信介の実の弟である。
1975年に亡くなった。

根の肯定は発展のエネルギーを生む

彼は最初の韓国訪問を今も忘れることができないと言う。
1965年11月頃に船に乗って釜山にいって大邱大田などで一泊ずつしてソウルに向かった。
途中のみずぼらしい居酒屋で会った人々 。
誰もが彼の事情を聞いて、「400年ぶりに帰ってきたなんて、可哀想で…。歓迎する」と酒を勧めたりした。
そして最初に見た漢江。
胸がいっぱいになった。

「幼い頃から漢江は世界で最も大きくて美しい川と聞いて育ったんです。先代から故国の誇りと家の誇りを継承して育った自分のルーツに対する強い肯定が誇りを生むようでした。」

当時ソウル大で講演した。
韓日国交正常化反対で大学街がうるさかった。
14代は、卵をぶつけられる覚悟をして、「あなたが36年の恨(ハン)を言うなら、私は360年の恨(ハン)を言わなければならない。しかし、それでは未来に進むことができないのではないか」と述べた。

「講演会場が静かになりました。ところが、少し経つと、誰かが立ち上がって『黄色いシャツを着た男』を歌い始めました。そうしたところ、すべてが立ち上がって歌を歌って舞台に向かって歩いてきました。私を招待した教授が涙を浮かべて近づいて抱きしめてくれました。学生たちも、その上に重なって抱きしめました。涙をおさえられませんでした。」

2013年2月最後の韓国訪問以後、体調が悪くなり、もう韓国に行けずいる。
「今でも『最後の旅行』を夢見ています。日本語を話せる人が運転するタクシーを一つ借りて全国各地を回って故郷に別れを告げてほしい。いつも思っているが、思うだけです。」

引用ソース
http://news.naver.com/main/ranking/read.nhn?mid=etc&sid1=111&rankingType=popular_day&oid=020&aid=0003109065&date=20171118&type=1&rankingSeq=1&rankingSectionId=103


>>14代は、卵をぶつけられる覚悟をして、「あなたが36年の恨(ハン)を言うなら、私は360年の恨(ハン)を言わなければならない。しかし、それでは未来に進むことができないのではないか」と述べた。
「講演会場が静かになりました。ところが、少し経つと、誰かが立ち上がって『黄色いシャツを着た男』を歌い始めました。そうしたところ、すべてが立ち上がって歌を歌って舞台に向かって歩いてきました。私を招待した教授が涙を浮かべて近づいて抱きしめてくれました。学生たちも、その上に重なって抱きしめました。涙をおさえられませんでした。」


*日本への「恨(ハン)」を分かち合った瞬間にみんな仲間になれるあの国のありふれた姿ですね。
日本に行ったことによる素晴らしさなんて語ってはいけないんです。あの国の情緒上。
在日コリアンも、故郷に帰れば、一様に「日本にどれだけ差別されたか。その中で故郷を思いながらどれだけ頑張ったか」を語るようです。そうすれば受け入れられる。

とくに、韓国の反日の歪みに今ほど気づいてなかった時代、日本の知識人の多くが、異常なほどのあの国に肩入れし、あの国の「恨」「反日」を育てたという要素もある。

「知韓」の目で見ると、いろんな点と点が線として繋がってくる。
こういう記事の反日性に、日本の賢い知識人たちは気づいてないんだろうけど。








韓国人のコメント


・連行されたのは正しいが、自らの意志で残ったのだろう。
ここは人間扱いしてくれる、だから朝鮮には戻らないという記録が朝鮮実録に残ってる。
朝鮮は反省せよ。
共感855 非共感36

・↑ゴッホをはじめとするヨーロッパ印象派の画家たちに多くの影響を与えた日本の「浮世絵」は、もともと日本の陶磁器を包装する包装紙として使用されたものです。
陶磁器がヨーロッパに輸出されたとき、包装紙が一緒に伝来し、ヨーロッパの画家たちに少なくない影響を与えたのです。
ジャポニズムというのは、朝鮮陶工たちの創造性と技術力、そして当時の日本の西南地域の領主の開放的な貿易支援システムが生んだものです。


・陶工は戻ってくる機会も多かったが戻らなかった。
なぜかって?
韓国では下品な扱いを受けていたが、日本では職人を技術者としてもてなされたから。
孔子曰く孟子曰くしていた朝鮮を賛美する韓国人たちが一番の問題だ。
朝鮮は高麗時代よりも退化した国。
最終的に、日本に、天皇の次の待遇を受けるという条件で、戦争もせずに国全体を売った。
共感893 非共感56


・「朝鮮が軽視していた陶工を、日本は士族として迎えておもてなしして、そのなかで技術を磨き上げた職人は、西洋社会のジャポニズム(19〜20世紀初頭のヨ ーロッパで日本美術文化を楽しんで好まれた現象)の風を巻き起こし、日本の近代化に影響を与えた。」
共感158 非共感1


・朝鮮の地に住んでいたら、蔑視と貧困で厳しい生活を送ることになって、家業が続かなかっただろう。
400年以上家業を守るのは容易なことではない。
社会がそのような風土を作る。
共感148 非共感4


・京大法学部や早稲田大政経学部出身が陶工。
韓国なら公務員や会社員になって、すでに命脈が切れていただろう。
共感138 非共感2


・技術者を軽視して、ひたすら孔子孟子するソンビだけ優遇していた朝鮮。
その技術を認めて貴族のおもてなしをしてあげたチョッパリ。
この考え方の違いが、最終的に時間が過ぎて、私たちより下だったチョッパリたちに殴られて35年間陵辱された根本的な原因だとみるべき。
共感147 非共感6


・こんなことは言いたくないが、むしろ日本で活動したのでうまくいったということができる。
朝鮮だと蔑視され搾取され、家業どころか飢え死にしてたかもしれない。
共感87 非共感0


・職人を認めて優遇するので、その技術力が道の境地にまで上がる…
私たちも技術者たちを優遇して価値を認める国になろう…
羨ましいですね…400年の伝統…
共感95 非共感3


・戦争が終わった後、朝鮮から日本に連れて行かれた陶工を戻すため日本側と交渉したが、肝心の多くの陶工たちは、仰天しながら絶対に朝鮮には戻らないと言った。
日本だと陶工は、酒やきれいな女性を与えられてもてなされ、師といわれたが、汚い豚奴隷扱いされる朝鮮に戻りたいか?
あなたなら、海外でプール付きの邸宅とリムジンでおもてなしされながら働いているのに、愛国心一つで帰国してあばら家で暮らせる?
共感94 非共感3


・朝鮮は最悪の国だった。不正多くて王族は腐っていた。
共感64 非共感6


・韓国がルーツだということを忘れずに継承していただきありがとうございます。
共感39 非共感1


・ここで語られてないが、実際には朝鮮で彼らは奴隷だった。
日本では職人として手厚いもてなしを受けた。
共感32 非共感0


・朝鮮に続く住んでいたら、名前も残らずに死んでいただろう。
共感30 非共感0


・韓国には文化がない。ふふふ
共感33 非共感2


・いっそ日本に連れて行かれてよかったと思う。
朝鮮に残っていたら技術者はとっくに消えていただろう。
共感30 非共感1


・朝鮮の地に残っていた陶工もいたが、奴隷だったし、命脈が切れた。ふふふ
日本だからあのようにアイデンティティを維持できた。
共感27 非共感1


・朝から良い記事を読みました。
ありがとうございます。
共感33 非共感4


・安倍の先祖が朝鮮人だったなんて…
共感56 非共感12

・↑そもそも日本の天皇も百済人だ。結論は韓国の血。


・引きずられて行った人々を連れてこようとしたが、職人たちは日本で生きるほうがはるかよいといって、朝鮮には戻らなかった。
朝鮮は何百年も前から脱朝鮮だけが答えだった。
共感24 非共感2


・故国への愛情は在日同胞が最高だ。
共感21 非共感1


・強制的に連れて行かれたが、特別な技術ゆえに神格化されて子孫代々よく生きてきたが、今は日本文化に同化した。
奴隷扱いしていた先祖の国に大きな未練はないだろう。
今その人が帰ってきたら、気楽に自分の技術に邁進することができるか?
日本だからよく生きられるのだろう。
共感18 非共感0


・記事を読むと涙が出るほど誇らしくて感動的でした。
最後の旅行の成功を願います。
共感17 非共感0


・結局、日本と韓国の違いは、職人をもてなす文化から違っていたと見られる。
今の日本は陶磁器を輸出する世界的な国となった。
共感16 非共感0


・朝鮮では陶工は家畜以下の賎民として扱われたが、日本では手厚い職人としてもてなされた。
陶工の立場では、日本の生活のほうがはるかによかった。
技術者を無視した朝鮮時代の貴族連中の悪習である。
共感21 非共感2


・尊敬します。
健康でいてください。
共感18 非共感1


・ヘル朝鮮は今でも技術者を見下げる。
共感17 非共感1


・おそらく朝鮮に帰るより、日本でいたほうが幸せに過ごしたのでしょう。
野蛮な朝鮮での陶工たちの待遇、どれだけ劣悪だったか。
共感14 非共感0


・日本にいたからこそ、私たちの陶磁器の歴史を保存することができたことが皮肉。
韓国は大切なものを本当にたくさん逃しているようだ。
共感19 非共感2


・文化と歴史の深さが異なっている。
長いだけで、韓国は何がきちんと残っている?
世界で最も古い企業が京都の建築会社だ。
共感16 非共感1


・文化は認める人がいてこそ光るもの…
共感13 非共感0


・他意によって他国に根を下ろしたが、根を忘れない心が感動的です。
共感13 非共感0


・韓国の茶道は近代に作られら捏造品。
共感14 非共感1


・韓国は文化、芸術を軽視する国です。
ここに帰らないで。帰れば苦労します。
共感10 非共感0


・泣けるね。涙
共感10 非共感0


・何百年も前から技術を軽視していた朝鮮、技術を優遇していた日本…昔も今も…エヒュ。ふふ
共感12 非共感1


・日本では侍、朝鮮では賎民。
共感12 非共感1


・むしろ日本にいたから成功したんだ。
韓国にいたらどうなっていたか。
共感9 非共感0


・この方のほうが、国内の売国奴より愛国者ではないかと思う。
400年の根の誇りと愛着…そして大きな勇気を持った方である。
共感9 非共感0


・先進国日本に残ったので職人になったのであって、朝鮮に帰郷していたら奴婢として死んでいた。
共感8 非共感0


・感動である。
共感7 非共感0


・韓国に戻ってきた瞬間ホームレスになる…
日本にずっといたほうがいいです。
共感8 非共感1


・ヘル朝鮮がどんなところかを知らず、ただ自分のルーツがここだから懐かしいという幻想を持つ朝鮮人を先祖に置いた外国人が多い。なかには軍隊に志願入隊する馬鹿もいるほどだ。
お願いだからそんなことしないで。
あなたの先祖が朝鮮で軽視されて蔑視されていたことをすでに忘れたのか?
しかも現在の韓国も技術者は無視する国である。
共感5 非共感0


・朝鮮に残ってたら奴隷。
技術者を優遇する日本に連行されたのが幸運。
共感5 非共感0


・壬辰倭乱が終わって最初の通信使が日本に行って、日本に連れて行かれていった技術者に朝鮮に戻ろうといったが、ほとんどが拒否した。
技術者を奴隷にしていた朝鮮とは異なり、日本は実力さえあればいくらでも優遇をしてくれる社会だったから。
韓国と日本は、すでにその時からの差が広がっていた。
共感5 非共感0


・歴史が残した傷や痛みが芸術に昇華された。
痛みや苦しみを介して誕生した涙の宝石の真珠のような…
陶工の顔に深く刻まれたしわや白髪に、故国への400年の懐かしさが感じられる。
共感5 非共感0


・今になって振り返ってみると、当時日本に連れて行かれたのは神の一手でしたね。
朝鮮に残っていたら今頃滅びてただろう。
共感4 非共感0