原爆の犠牲になった米軍兵士とアマチュア歴史家

趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから井戸の外のバンダービルドさんが、ジュリアン・レイオール氏(英国デイリー・テレグラフ紙記者)のコラムを紹介してました。二重翻訳での紹介。
長いですが、すてきな記事なので、ぜひ全文お読みください。

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原爆の犠牲になった米軍兵士とアマチュア歴史家

バンダービルド


ジュリアン・レイオール(英国デイリー・テレグラフ紙記者)のコラムを紹介


1945年8月6日に広島に投下された原爆によって亡くなった犠牲者の中には、12人の米軍捕虜も含まれていた。
アマチュア歴史家の「森重昭」(79歳)さんは、40年以上を捧げて被爆米兵の遺族全員を探した。
米国の映画監督のバリー・フレシェットは、その記録を「Paper Lanterns」というタイトルの映画で紹介した。

40年の間、森重昭さんは、広島原爆で犠牲になった14万人ほどの人々を含む被曝米軍兵士12人の記録の断片(パズル)を合わせていった。 
2016年に79歳になった森さんは、本人も被爆被害者だ。
自らを顧みず献身してきた彼の偉業は、被爆米軍の犠牲者「ノーマン」と、学生時代に親しかった友人の甥(映画監督のバリー・フレシェット)に知られる前までは、世の中にまったく知られていなかった。

「森さんは40年もの歳月を注いで、被爆米軍の謎を解いてきました。アマチュア歴史家として史実を非常に重視している森さんにとって、仔細で詳細な歴史的な発見が非常に重要だったからです。12人の米軍飛行士に敬意を表して、人々の記憶を一つ一つたどって、遺族に対して何が起きたのかを知らせたかった森さんは、ついにその仕事をやり遂げたのです」とフレシェット監督は言った。

バリー・フレシェット監督と森さんが出会った運命は、監督が生まれるはるか前、米陸軍所属B24爆撃機のロンサム レディー号とトロア号が、別の2機の米海軍の戦闘機と共に、 1945年7月の終わりに日本巡洋艦を爆撃して撃墜された時点からすでに始まっていた。
撃墜された爆撃機の乗組員がすべて生き残ったのではなかった。
パラシュートで降下して日本に救助された13名は、近くの都市の広島の日本軍憲兵隊司令部に護送された。
その後、トーマス・カートライト中尉は尋問のために東京に移送された。
この分かれ道が、トーマス中尉の命を救うことになった。

1945年8月6日の朝8時15分に原爆が広島上空で爆発したとき、米軍捕虜が抑留されていた憲兵隊司令部は、爆心地から400メートルの距離だった。
9人の捕虜は即死した。
シアトル出身の「ヒュー・アトキンス」軍曹は奇跡的に生き残ったが、次の日に放射能の症状で死亡した。
残りの二人の「ラルフ・リール」軍曹と「ノーマン」上等兵は、原爆が600メートル上空で爆発する直前に、尋問を受けるために憲兵隊からやや離れた場所に移送された。
しかし二人もまた、原爆の影響から完全に逃れることはできなかった。
日本人医師からの応急処置と治療を受けたが、13日後に放射線症状で死亡することになって、日本の憲兵隊員によって葬儀が行われた。
8月9日、第二の原爆が長崎に投下されて、日本は8月15日に降伏した。

1945年当時8歳だった森さんは、広島を覆う惨禍の中で九死に一生で生き残った。
森さんは、当時の状況をこう語った。

「爆発当時、爆心地から2.5キロ離れた北西の方の丘にいました。爆風に押されて川に落ちて、やっと意識を取り戻した時は、キノコ雲の真ん中にいました。世界中が暗くて、目の前10センチメートルの距離の私の指の動きですら見えませんでした。焼けるような感じ(熱気)が信じられないほど強くて、周辺の木々や家、そして、その中にあるものが空中に吸い込まれて巻き上がっていました。地球が爆発したのではないかと思いました」

戦後、森さんは、自らの人生設計に邁進した。
学校では特に歴史科目に興味があったし、成績も非常に良かった。
森さんは歴史の教授になる夢を育てていくと同時に、大学卒業後は大手証券会社、そして後には楽器メーカーヤマハで定年まで働いた。
リサーチ(調査活動)は週末を利用した。
森さんの歴史研究への情熱は、持続した。 
38歳の時に森さんは、当時の米軍の飛行機が、伊陸村(現在の山口県柳井市)近くの山に墜落したという話を聞いた。

「この話を聞いて、私は実際に墜落したという現場を訪ねて、農家の噂をたよりにして捜した結果、みんな墜落の事実をよく知っていました。そして、彼らは墜落現場に私を案内してくれました」

森さんが現場で目撃したのは、米軍爆撃機の「ロンサムレディー号」の残骸だった。
その後数年間の研究を通じて、森さんは米軍の乗組員の名簿一人一人をすべて把握して、かれらが広島憲兵隊司令部に移送されたことを明らかにした。
併せて、その後に墜落した別の米軍の爆撃機の乗組員三人も捕虜に追加されたことも分かった。

しかし森さんは、名前を確認しただけでは満足できなかった。
可能なら遺族を見つけ、自分が明らかにした情報を最大限に伝えようと思った。
政府機関は事実上、参考にならなかった。
まず死亡した米軍のファミリーネーム(姓)を探して、同姓のアメリカ人を見つける作業から着手した。
当時、携帯電話で国際電話オペレーターの通訳を介して、ワシントン州を皮切りにして、米軍の死者とファミリーネームが一致する人を探し始めた。

「調査は簡単ではありません。私は心臓の機能に問題があって、米国現地に行くことができませんでしたし、米国には50個もの州があって、同じ姓を持つアメリカ人が無数にいたからです。それでも、死ぬまで探そう、何とか遺族を探して、死亡した米軍兵士の写真と名前を正式に平和記念資料館に原爆犠牲者として登録しなければと決心しました」

国際電話通話料金の請求書は、毎月7万円ほどになった。
調査はずっと難航した。
そしてついに、「ジェームズ・ライアン」の兄「フランシス・ライアン」と出会ったのだ。

「被爆米軍兵士の名前を最初に平和記念資料館に登録する時、思わず涙があふれました」と森さんは当時を思い出した。 
「誰にも知らせずしていた仕事だったので、誰からの助けを受けることもありませんでした。困難が続きましたが、私は何とかこれを成し遂げたかったのです」

「フランシス・ライアン」から出撃前に撮った写真をはじめとする新しい情報を得ることができたし、B24爆撃機ロンサムレディー号の機長の「カート・ライト」中尉を見つけることに成功した。 
「カート・ライト」氏とは、それ以来20年以上の友情を築いた。
カート・ライト氏が昨年(2015年)に亡くなるまで、お互いに交換した手紙は100通を超えた。

「広島には原爆犠牲者のための数十個の慰霊碑があります。しかし、犠牲になった米軍兵士のための碑は一つもありませんでした。私は幸いなことに生き残りました。だから、生き残った私は何とか遺族を見つけ、愛する家族(米軍兵士)の最後の様子を伝えなければという気持ちがより一層切実になりました」

1999年森さんは、12人の被爆米軍の犠牲者の記念碑を広島憲兵隊司令部のあった場所に建てた。 
2012年には、トルーマン大統領の孫のトルーマン・ダニエルさんと共に、この記念碑に献花して、弔意を表した。
徐々にこのような森さんの努力が世に知られるようになって、米国メリーランド州の米国州立国会図書館の膨大な資料をはじめとする他の様々な膨大な資料をもとに、最終的に12人の被爆米軍の犠牲者全員の遺族を見つけ出すことになった。

森さんは、最後の12人目の米軍の遺族を探し出したとき、もう目的を達成したという気持ちにしばらくなっていたが、決して研究活動からは手を離さなかった。
今は二番目に原爆が投下された長崎で犠牲になったイギリス軍とオランダ軍捕虜の遺族の行方を探しているところである。

被爆米軍の「ノーマン」上等兵の遺族は、森さんが様々な情報を送ってくれたことに対し、森さんに心から感謝している。
このような事情をノーマンの学生時代の友人の「エディ・シャンドゥネ」が知ることとなった。
「エディ」は、自分の甥の映画監督「バリー・フレシェット」に、ノーマンの遺族らが長い間知らなかったノーマンの最後の詳細を知ったことを喜んでいると伝えた。
バリー・フレシェット監督は、「遺族が整理しておいたノーマン関連の本を手に入れて読みましたが、すぐに熱中しました。その話は広島で被爆した12人の米軍の話でした。ところで、私たちの世代の人々は、このような話を全く知りません。そのため、この話を世の中に知らせなければという考えを持つようになりました」と述べた。

バリー・フレシェット監督は、2013年の春、初めて森さんに連絡を取った。
そして翌2014年2月には、ノーマンの遺族が渡した本の内容が本当かどうかを直接本人の目で確認するために、単身で日本に入国した。
監督はこう言った。

「森さんの家に到着して応接室に入ると、乗組員一人一人の書類が、ピアノや応接テーブルなどの上にぎっしりと置かれていました。森さんは、それぞれの乗組員について、驚くほど詳細で正確に調べていました。結婚していたのかどうか、子供がいるのかどうか、子供が何人なのか、出身地と搭乗爆撃機の関連情報など…そして、私はその場でこれを必ず世の中に知らせなければという思いをさらに強くしました。ノーマン氏の故郷のマサチューセッツ州ローウェルに住んでいる人よりも、はるかにノーマン氏についての詳細を知っている人に日本で会うことになるとは、夢にも思いませんでした」

監督は最近2年間のドキュメンタリー制作に集中する中で、「ノーマン」氏の甥「スーザン・ブリセット」氏と「レルプ・ニール」氏と一緒に日本を訪問した。
ノーマン氏の遺族と森さんとの出会いは、実に感動そのものだった。
このシーンは監督の映画「Paper Lanterns」のクライマックスに入った。
映画は米軍それぞれの遺族と、ピースの形になっていたパズルを合わせていくアマチュア歴史家森さんの話だ。
森さんは、映画の最後の部分でこう言う。

「戦争とはこのように悲劇的なことです。今後の世界は常に平和であることを願っています」

○森重昭(79歳)
-1937年生まれ、アマチュア歴史家、広島被爆の経験者。現在、妻の佳代子さんと広島在住。二人の子供がいる。


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米軍捕虜原爆被害者12人の身元確認作業をした「森重昭」(79歳)氏と抱擁するオバマ大統領。= 27日午後6時08分。


引用ソース
https://www.chogabje.com/toron/toron22/view.asp?idx=&id=135245&table=TNTRCGJ&sub_table=TNTR01CGJ&cPage=1



韓国人のコメント


證人(ハンドルネーム)
文章を読んで、最後の写真を見た瞬間、急に目の周りがビリビリしてきました。





*涙が…
森重昭さんの涙が尊いのは、彼が自分のために泣いたんじゃないからだと思いました。
かつての米兵が、現米軍の最高司令官である大統領に、亡くなった場所ではじめて慰霊を受けたことについての喜びの涙じゃないかなと思いました。


こんないい話の後に、こんなことを書きたくない気持ちもあるんですが、書いておきます。
いや、だからこそ、普段から私が韓国メディアを一人アホみたいに山のように読みながら感じてる「思い」を書いておかなくちゃと思います。

朝鮮人のためにこれと似たような活動をした日本人もたくさんいます。
そしてそれは、韓国メディアでも時々取り上げられています。
韓国ネットで芋づる式の記事サーフィンをやっていると、そういった記事にもちょこちょこ遭遇します。

でも、英国デイリー・テレグラフ紙記者さんの書いたこの記事を読んだときのような洗われるような気持ちにはなりません。
おそらく私に限らず、韓国メディアが書いた記事を日本人が読むと、多くの人が、泥を食べさせられたようなザラザラした不快な気持ちになるでしょう。

どういうことかというと、韓国メディアはこういった人の活動を、「韓国式の気持ち悪い構図」でしか紹介しないからです。

たとえば「人生のすべてをウリナラに対する贖罪の旅に捧げてきた日本人がいます。」とか。
たとえば「こんな日本人は少ないですが、日本人は彼の姿を見て、何かを感じるべきでしょう。」とか。

意味が分かりますでしょうか。
徹底的に「ウリナラは被害者、日本は加害者、それを自覚せよ」なんです。
すべての罪を日本人に押し付け、自分たちが無垢な被害者であることを強調し、「甲乙関係」を決める方向性へともっていく記事にしかなってない。
彼ら韓国人は「正しい日本人」と「正しくない日本人」を組み分けし、そういった活動をしてきた日本人を「正しい日本人」に分類して褒め称え、他の日本人に対して「彼のような日本人にならなければならない」と上から説教するんです。そうやってすべての日本人を「ウリナラの考える正しい贖罪日本人」に染め上げることが、正しい歴史和解への道だと心底思ってるんでしょう。
さらにその日本人に日本の政治や政権の批判などを必ずさせて(質問してるんだろうなと思います)記事を締めくくる、みたいな。
なんなんだ、この記事は…と思う。
韓国にとって和解というのは、「善と悪を決め、善が求めれば悪の側はいつでもどこでも土下座すること」です。

でね、そういった日本人のことをそのままうちのブログで紹介すれば、おそらくその日本人に対しての罵倒でコメント欄が埋まるでしょう。てか、過去記事でそういうことがありました。
もちろん私も「もうやめてほしい。韓国の論理に利用されるだけで、いくらやっても和解になんて繋がらないから。」みたいなことは書くけど、あまりに心ないコメントだらけになったり、その日本人がただ在日扱いされてるのを見たりすると心が痛む。もちろんそういう日本人の中には、すっかりサヨクの(韓国の)異常論理に染まった人もいるけど、みんながそうじゃない。
だってそもそも悪いのはその日本人じゃないから。そういう日本人の根っこにあったものは、ここで紹介されてる森さんと根本的には何も違わないはずだから。
違うのは、「相手が米国人だったのか、朝鮮人だったのか」という違いだけです。それだけなのに、あまりにも大きな違いだと思います。
善意の活動がそうやって利用されることに胸が痛むと同時に、やはり「もうやめてほしい。韓国の論理に利用されるだけで、いくらやっても和解になんて繋がらないから。」と思う。

大量にそういったものを読み、私は、心の底から韓国とは価値観を共有できないと確信するに至りました。
これは理屈以上に、肌で感じたことです。
ここには理屈を書いてますが、理屈以上に「大量の記事から感じた肌感覚」があるんです。

今回の件で、なおさらそう思いました。
とりあえず総評を求めて韓国各メディアの社説をざっと読んだけど、見事に論調は同じ。
上から目線で日本に「これで免罪符を得たと勘違いするな!お前らは加害者だ!」を言いまくってました。苦々しさと恨みが文面からオーラのように匂い立ってくる、背筋の寒くなるおぞましい記事です。


ちなみに頑張ってきたのは民間だけじゃないです。
日本政府もさまざまなことをやってきている。
紹介されてる方も多いですが、↓これね。産経の黒田さんの記事。


韓国人被爆者への支援、実に40億円も「冷淡」と言われヤル気うせる 

「ヤル気うせる」…うん、ホントそうだよ。
何しようが、韓国からかえってくるのは、「謝罪せよ!賠償せよ!」の連呼。
日本政府がしたことなど報道せず、ひたすら「日本はなにもしていない」「日本は反省していない」の連呼。

改めて、韓国には謝罪の気持ちなんて一片も必要ないです。
なにも必要ない。きっぱり無駄です。
彼らに関わると、気持ちがささくれだち、日本人からどんどん優しさが消えていく。
本当に無駄です。

日本の地で亡くなった米国兵士の慰霊、日本人は喜んで受け入れることができる。かつての敵兵ですが、日本人はそれを嫌がらない。それどころか、もし嫌がる日本人がいれば、非難の的になるでしょう。だって、原爆が落とされてボロボロの敗戦直前の状況ですら、↓これをしたのが日本なんだから。

>>残りの二人の「ラルフ・リール」軍曹と「ノーマン」上等兵は、原爆が600メートル上空で爆発する直前に、尋問を受けるために憲兵隊からやや離れた場所に移送された。
しかし二人もまた、原爆の影響から完全に逃れることはできなかった。
日本人医師からの応急処置と治療を受けたが、13日後に放射線症状で死亡することになって、日本の憲兵隊員によって葬儀が行われた。


韓国の地で亡くなった日本兵士もたくさんいます。
でも、韓国の地で慰霊することなど不可能です。
あの国がそれを日本のようにあたたかく受け入れられる国になるまでは、あの国との和解など不可能だと私は思います。
つまり、今後も永久に不可能だということです。

日本人の考える和解は、かつての敵国が互いの犠牲を共にいたみ、共に互いの兵士を称えること。
韓国人の考える和解は、「日本が悪」と両国で確認し、韓国の犠牲者だけいたみ、日本兵の墓には両国で仲良く唾を吐くこと(そしてそれを永久に続けること)。

唾を吐けますか?
私には無理です。


バンダービルドさんのコラム(一部)