他の国の教科書に口出しする習慣

趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから井戸の外のバンダービルドさん。

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他の国の教科書に口出しする習慣

バンダービルド

9日、聯合ニュースなど一部のメディアは、「日本、教科書また歴史歪曲…『新羅が日本に朝貢』と主張」という記事を掲載した。
記事は、国内のある教授の論文(「日本の中学校歴史教科書…分析」)を引用し、日本内のいくつかの歴史教科書の内容の中に出てくる次のような記述を問題視した。

【韓国の反応】韓国またまた特大発狂!日本の教科書が「新羅が日本に朝貢」と主張 「また歴史歪曲」


- 「新羅が日本に『任那』の産物を送った」

- 「任那が滅亡すると、新羅はこの問題に日本が介入することを避けたいために、日本に任那の産物を送り、友好的な姿勢をとった」

- 「(広開土王碑文には)『倭が朝鮮半島に出兵して百済と新羅を服属させたと書かれていた』と歪曲した」

記事の論文を作成した教授が言及した「『新羅が日本に任那の産物を送った』というのは『新羅が任那の産物を日本に貢納した』という意味だ。これは伽耶に対する倭王権の支配の論理をそのまま表わしたもの」という発言をもとにして、「日本、教科書また歴史歪曲…『新羅が日本に朝貢』と主張」というタイトルをつけたようだ。
記事は、日本の教科書が「韓半島」を「朝鮮半島」と表記したことも問題視した。
日本内で朝鮮半島と表記するのはよくあることである。

しかし問題は、「日本、教科書を歴史歪曲」と断定しておいて、どうしてこれらの記述が歪曲なのか、読者に明確な根拠(証拠)を全く提示していないという点である。
「4~6世紀の韓日関係や日韓関係に関する既存の研究史を無視した叙述」というのを理由に挙げているだけだ。
もしそうなら、タイトルは「日本の教科書、既存の研究を無視」あるいは「日本の教科書、韓国の立場を無視」と正確に書いてこそ正しい。

「日本、教科書を歴史歪曲」のように言うのなら、逆に日本の立場では、韓国の歴史教科書に向かって、「韓国、教科書を歴史歪曲」というふうに、同じように出てくるだろう。
全世界が韓国を中心に回っているわけではない。
日本の歴史教科書は、日本の学生用である。
自分たちの口に合うように教えるのは当然である。
どの国でも同じだ。
これが嫌なら、韓国の歴史学界が日本側を釘付けする明確な根拠(証拠)の資料をすぐに出せば良い。
ところが、根拠資料は一つも出さないのに、無条件に相手に向かって「歪曲」云々を言う式でなら、お互いの間で混乱が大きくなるだけである。

日本は韓国に向かって、韓国の歴史教科書について一切口出しすることがないのに、どうして韓国は明確な根拠(証拠)提示もできないのに、日本の歴史教科書について、このようにおせっかい(口出し)するのか?
おそらく、日本が甘いからそうするのだろう。
望ましくない習慣は捨てなければならない。


☞記事の読者の反応(99.9%が日本を罵って非難している)のうち、特異な意見を一つ

「他の国の教科書にこのようにケチをつけるのも稀だ。スタンフォード大学東アジア研究所は、最も公平な歴史教科書は日本で、韓国は偏狭で自己中心的だと言っている。ファンタジー国史教科書の中国を除いて、世界中に笑われるものである。」(123a****)


参照)

<三国史記 百済本紀 阿シン王朝>
6年(397)夏5月に王が倭国との友好を結んで、太子支を人質に送った。秋7月に漢水之南から大閲した。
(六年夏五月王與倭國結好以太子支爲質秋七月大閱於漢水之南)

<三国史記 三国史記권제45(列伝第5)、朴堤上>
先是実聖王元年壬寅(402)に倭国と興和したが、倭王が奈勿王の息子の未斯欣を人質にすることを求めた。王はかつて奈勿王が自分を高句麗に人質に送ったことを恨んでいたので、その息子で恨を解こうとして、拒絶しなかった。
(先是實聖王元年壬寅與倭國講和倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質
王嘗恨奈勿王使己質於高句麗思有以釋憾於其子故不拒而遣之)


上記の記録から見られるように、百済と新羅はそれぞれ倭に人質を送っている。
そんなに強盛だったというなら、百済はどうして倭に人質を送ったのか?倭に多くの文物を伝えてあげたという新羅は、なぜ倭に人質を送ったのか?

(ネイバー内)

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任那日本府と前方後円墳(主な内容抜粋)

大平 裕
1939年生まれ。大平正芳記念財団の代表。
主な著書、「日本古代史 正解」(講談社)など。


現在、任那の存在は触れてはいけないものとなってしまっています。
日本が統治していたというニュアンスを含むことから、学会も隣国に遠慮しましょう、という暗黙の了解ができてしまったのです。


加えて、左翼に屈服したことが象徴的にあらわれているのが、広開土王碑改竄問題です。

これに関連し、左翼的な雰囲気に屈した象徴的な事件がまさに「広開土王碑操作」論争です。
西暦四〇〇年前後、日本は朝鮮半島東西で大規模な戦争に主力として参戦し、百済を高句麗から助ける一方、東海岸では任那とともに北上し、新羅を攻略しています。
日本史上初の海外での大規模な戦争でした。

この戦争の模様は当時高句麗王だった広開土王(第十九代・在位三九二─四一三)の生涯を刻んだ石碑「広開土王碑」(四一三年建立)に記されています。
広開土王は好太王ともいわれ、北は北燕と、南は百済へ侵攻と、戦いに明け暮れた国王でした。
当然のことながら、碑文は王の功績を示すために、連戦連勝をアピールしていますが、倭国とともに任那の諸国名(加羅・安羅)がはっきりと刻まれており、任那の国際的認知がくみ取れるのが印象的です。
倭国に関連した記述は十一カ所ありますが、要約すると次の通りです。

・三九一年(辛卯)
倭が海を渡り百済・新羅を臣民とする。
 
・三九九年(己亥)
百済は高句麗との約を違え倭と通じ、平壌に来攻、一方、新羅より急使あり、倭人国境に満つ。

・四〇〇年(庚子)
新羅救援のため五万の兵を派遣、倭軍城中に満つ、倭兵を討つ。

・四〇四年(甲辰)
倭、不軌(無法)にも帯方郡に侵入。

・四〇七年(丁未)
五万の兵を率い(倭と)戦う、(倭は)鎧一万余を残し敗退。

ところが、この広開土王碑については、一九七二年、在日の学者李進熙がこれまでの碑文解釈・解読に対してとんでもない異論を唱え、学会は大騒ぎになりました。
この碑文は一八八四年、旧日本軍参謀本部の酒匂景信が入手したものですが、近代日本の朝鮮半島進出を正当化するため、都合がいいように、旧陸軍が拓本を改変したというのです。
実物の検証ができない当時、李進熙の突飛な意見を否定することはできませんでした。そのため研究は四十年近くにわたり停滞せざるをえませんでした。


李進熙は、かねてから日本側の広開土王碑文を拠りどころにした「大和政権が四世紀後半に半島に出兵、百済、新羅を征服、伽耶地方に任那日本府という統治機関をおいて、二世紀の間支配していたのは歴史的事実」という論に強く反発していました。

しかし、二〇〇六年四月十四日の読売新聞(朝刊)に、「好太王碑の拓本発見……改竄論争に終止符」という、センセーショナルな記事が掲載されました。
古代日本の朝鮮半島進出を記録した、中国吉林省の広開土王碑最古の拓本が中国で発見され、倭国(日本)との関係を示す記述が、旧日本軍の入手した拓本と一致することが、中国社会科学院教授である徐建新の研究で判明したのです。

これによって、一九七〇年代以来論争が続いてきた、旧日本陸軍による碑文改竄説は、成立しないことが確定しました。

徐建新は、東アジア各国に散在する約五十種の拓本を確認する作業を続け、二〇〇六年、それまで最古とされていた酒匂入手の拓本より古い一八八一年作成の拓本を、北京のオークションで発見したのです。
それを酒匂拓本とともにパソコンに取り込んで比較したところ、意図的な書き換えの痕跡はないことが判明しました。その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表されました。

李進熙の民族感情むき出しの反日史観は、植民地支配への贖罪観を抱く日本人学者たちを倫理的に追い詰める恰好の攻撃材料だったのです。
長い間広開土王碑研究にブレーキをかけた悪しき学者の例といえるでしょう。
そのブレーキのせいか、一九八〇年代、日本の歴史の教科書からはいっせいに広開土王碑の記述が消えてしまいました。
近隣諸国へのおもねりが、どれほど歴史学を捻じ曲げ、国益を損なうことになるか歴史家の猛省を促さざるをえません。

一九八〇年代、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道、とくに南道の栄山江沿いに十四基の前方後円墳が次々と発見されました。
前方後円墳は日本に固有のものと考えられてきましたから、韓国の学者はここぞとばかりに、「前方後円墳の発祥地は韓国で、倭国へ伝えられた」と声高に主張しました。
しかし、その主張もほどなく破綻しました。
なぜかというと、日本では岩手県から鹿児島県までの広い範囲で前方後円墳が多数見つかっており、造営された年代も明らかに韓国の前方後円墳より古かったからです。前方後円墳は日本で独自に発達した墓制(=墓のつくり方)であり、日本(倭国)から朝鮮半島に伝わったものなのです。
そして、朝鮮半島で前方後円墳が見つかった地は、『日本書紀』が記す任那西部の地なのです。

任那をめぐっては、その存在に言及することすらタブーとされる風潮がありますが、史実を政治的な理由で曲げてはなりません。
韓国では、「日本の文化はすべて韓国から渡来した」と主張する人々がおり、前方後円墳韓国起源説を唱える学者もいます。
韓国の学者達は、「韓半島の前方後円墳が日本から入ってきたのはありえないことだ」あるいは「認めたくない」という極端なナショナリズムを示す傾向があり、これに同調する一部の日本人学者も存在するのが現実です。

五世紀後半から六世紀前半にかけての任那・伽耶(加羅)地域が、倭国とどのような外交・軍事、そして社会的関係にあったかという文献的知見を見ることなく、ただ「前方後円墳否定」に走ってしまったのは残念なことです。
このような韓国側の改竄・捏造を日本人の学者も充分に知っているはずですが、なぜ「だめだ」と言わないのでしょうか。
なぜ迎合しているのでしょうか。
彼らは、指摘してしまうと韓国側から資料をもらえなかったり、お互いの学会の交流ができなくなってしまうであるとか、変なことばかり気にかけているのです。
教授の方針に逆らえば、准教授の立場もなくなります。当然、学生も逆らえません。

任那について否定する風潮が続いていますが、歴史というものは、善悪は別にして史実は史実として研究を重ね、明らかにせねばなりません。
その意味で、極端な左翼史観や、極端なナショナリズムにとらわれることのないよう、研究を積み重ねていってほしいものです。

引用
http://ironna.jp/article/1344


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光州月溪洞の前方後円墳。(上の写真)
日本び群馬県の前方後円墳。(下の写真)

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また、他の日本内の前方後円墳。


バンダービルド

引用ソース
https://www.chogabje.com/toron/toron22/view.asp?idx=&id=134777&table=TNTRCGJ&sub_table=TNTR01CGJ&cPage=1


*↓これ、全文読んでみてくださいね。

ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」




韓国人のコメント


イムジョンムテ(ハンドルネーム)
歴史書は支配者たちの歴史を、かれらの立場から大げさに整理する傾向があると考えています。
相手を削り下ろし、自らを浮上させる…
したがって、常識の範囲内で客観視する必要があると考えます。
万世一系に理もないし、天孫にも理がないではないですか?
古代史をよくは分からないが…
青銅器、鉄器文化は、明らかに韓半島を通じて伝来されたものです。
青銅器と鉄器は軍事力です。
任那日本府説?
青銅器や鉄器で武装した集団を、石器や青銅器の集団が征服をする?
これは、核兵器を持つ米国を、日本が侵攻して征服したと主張するのと同じ論理だと思われます。
ああ、もちろんグアムなどの米領を一時的に占領することはありますが…
私はそういったものを誇張したのだろうと思います。
常識的に歴史を再構成してみると、
温祚と沸流が葛藤して…一部が任地域にとどまって、最終的に日本にわたって、新羅系勢力を追い出して、国を建国して、その名を倭と称した。
倭と百済は兄弟国だった。
たまに倭の一部勢力が韓半島南部地域の略奪をした。
その勢力が大きくなった時に、百済と新羅の内陸深くまで侵入した。
そして、この時に、広開土大王が助けてやって、倭寇を整理したのではないかと思います。
まあざっとこんなふうなことを、そういうふうに記述したのではないかと考えます。


アンチバンダー(ハンドルネーム)
対馬がもともと私たちの土地だといっても、他人の国へのおせっかいになるからと、日本人は黙っているのか?


イムジョンムテ(ハンドルネーム)
日本が私たちの土地ではないか?
今はこの三国です。
高句麗 - 北韓
新羅 - 大韓民国
百済 - 日本
唐 - 듕귁(*デュングィト/いちおう中国。面倒くさいので細かい説明は省略)


バンダービルドさんのコラム(一部)
【韓国の反応】ある韓国人の悩み「いつからか韓国の歴史教科書の記述が主観的で偏向していると思うようになり、信じられなくなってしまいました」