(雑談)日本の対外戦争勝敗
日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に勝った要因

趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから
井戸の外のバンダービルドさん。

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(雑談)日本の対外戦争勝敗

バンダービルド

日本の開国後の主要な対外戦争の勝敗

●日清戦争、勝利

●日露戦争、勝利

●第1次大戦、勝利(日英同盟としてドイツに宣戦布告)

●第2次大戦、敗北(日独伊同盟側)


¶日本は、中国、ロシア、ドイツ(1次大戦)に勝利して、米国に負けた。

- 最近の120年のうち、20年以上をまるまる戦争をしていた経験。

- 3回戦勝国の地位を楽しんで、一度で敗戦国の境遇に。

- 戦線は、アジア太平洋全域、ヨーロッパの地中海(第1次大戦)まで

- 4回戦って、三回勝った成績(勝率75%)


☞日本の安全保障法制(集団的自衛権など)の発効日の29日、中国は敏感に反応した。

- 今後、もし中国が南シナ海などで米軍(艦艇、航空機など)を挑発した場合、日本は自国が攻撃されたものとみなして、中国を直接攻撃できる法的基盤を確保。

- 特に、中国は自分のすぐ顎の下(日本領の与那国島)に28日付けで自衛隊が正式駐留することについて、気を尖らせている状況。

- 東シナ海と南シナ海での拡張を図る中国と、これを阻止しようとする米日間の偶発衝突の確率は、以前よりも高くなっている状態。

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引用ソース
https://www.chogabje.com/toron/toron22/view.asp?idx=&id=134047&table=TNTRCGJ&sub_table=TNTR01CGJ&cPage=1



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日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に勝った要因

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1905年5月27日から28日にかけて、対馬沖で東郷平八郎(1848~1934)隊長率いる日本連合艦隊が、ロジェストヴェンスキー中将が率いるロシアのバルチック艦隊を壞滅させた。
バルチック艦隊が、バルト海軍港で極東に向かって出港したのは、前年の10月15日だった。 
38隻が地球を半周する大遠征だったが、日本の同盟のイギリスの支配下に置かれた港に寄港できず、良質の石炭を確保できなかったのも、日本に有利に作用した。
ロシア側は戦艦6隻を含む計21隻が撃沈されて、約5000人の戦死者が発生して、司令官を含む約6100人が捕虜になった。
日本側は水雷艇3隻の損失と120人の戦死者が発生した。


日本連合艦隊の勝利の要因5つ

●熟練した訓練とこれに伴う自信

例えば、日本連合艦隊の旗艦の三笠の場合は、1年間で18000~19000発の砲弾を用意していた。
平時には通常、そのうちの30~40%の砲弾を使わず、翌年に繰り越しする。
しかしバルチック艦隊との海戦の準備をしながら、鎭海湾で行った艦砲射撃訓練に、三笠は平時の年の数字をはるかに超える30000発の砲弾をたった10日ですべて撃った。
艦砲射撃訓練は、昼も夜も続いた。
1905年2月から5月までの4ヶ月間、連合艦隊の戦艦、駆逐艦、巡洋艦、裝甲クルーザーはもちろん、水雷艇に至るまで、すべての艦は、敵艦の攻撃に最適化された状態で突入した。
各艦の砲術長などの乗組員は、熟練した訓練に伴う自信に満ちていた。

●量的優勢

海戦に動員された日本連合艦隊は99隻で、バルチック艦隊は38隻だった。
このうち、掃雷艇、駆逐艦などを除いた戦艦、裝甲巡洋艦、巡洋艦などの大型艦だけをみても、日本は28隻でロシアは18隻だった。

●優れた火薬と信管

連合艦隊は、下瀬雅充(工学博士、1860~1911)が開発した爆発力の高い「下瀬火薬」と、これを後押しする「伊集院信管」(砲弾内部の火薬を起爆させる装置)を砲弾に採用した。 
「伊集院信管」は、伊集院海軍大佐が開発したヒューズで、砲弾が飛んでいる間、尾のネジが回転して、安全装置をはずす方法である。
当時のロシア艦隊の砲弾は、ヒューズが不良で不発弾が多かったのに対して、日本の艦隊は不発弾がほとんどなくて、爆発力が強化された「下瀬火薬」で敵艦艇を破壊した。

●指揮官の経験

日本連合艦隊の第1艦隊の東郷平八郎隊長と、第2艦隊の上村彦之丞中将は、それまでに日清戦争など、様々な戦争経験を持っていた。
旅順軍港封鎖作戦、蔚山海戦、黄海海戦などを介し、海千山千の経験のある指揮官だった。
一方でロシアのバルチック艦隊の指揮官は、戦争経験がほとんどなく、たった10ヶ月前の自国(ロシア)での旅順艦隊敗戦についての研究や反省すらしていなかった。

●ロシア側の疲労累積

ロシアのバルチック艦隊は、半年以上の航行に伴う疲労感が蓄積した状態だった。


バンダービルド

引用ソース
https://www.chogabje.com/toron/toron22/view.asp?idx=&id=134093&table=TNTRCGJ&sub_table=TNTR01CGJ&cPage=1



韓国人のコメント


・たとえ敵だとしても、学ぶことは学び、それを自らのものにして、自らを発展させる精神がうらやましいだけだ…


正解と不正解(ハンドルネーム)
控えめな性格の人は、自分の功績を誇示しません。
海軍提督の東郷平八郎は、勝利の後も自分の功績を誇示せず、韓国の李舜臣を賞賛する人柄である。
そのような性格の人間が偉大な人物なのは確実である。
そのような方が李舜臣を優れた将軍で偉大な方だったと言ったことで、ただ気持ちよくなるのではなくて、私たちもそのような謙虚さを見習う精神が必要である。
なのに、私たちは、むしろ東郷平八郎が李舜臣を賞賛したことを繰り返し言いながら、途方もない勝利だったと大声を出している。
この滑稽さ愚かさが、私たちの限界のようで苦いです。



*ところで…
東郷平八郎というと、ある教科書について、私が以前、「はああ?」ってなった話があります。
↓この問題ですが、今はどうなってるんでしょうか。



2:朝鮮水軍の英雄・李舜臣と、日本海軍の英雄・東郷平八郎元帥

東京書籍は87ページにおいて、秀吉の朝鮮侵略の所で朝鮮水軍の李舜臣の名を本文に載せ、更に彼の銅像の写真を載せております。

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東京書籍 p.87


ところが、日露戦争の所では、日本海軍の英雄である東郷平八郎元帥の説明が一切ありません。名前も無ければ、写真もありません。
そもそも、東京書籍の教科書には日露戦争の記述が3行しかありません。

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東郷元帥が載っていない東京書籍p.158

まず李舜臣について、東京書籍の本文の文章からしておかしい。

(中略)

また、確かに李舜臣は初め日本水軍を悩ませますが、後半は日本水軍に押され、最後は露梁海戦において日本水軍の鉄砲隊に狙撃されて戦死します。
  
李舜臣は、韓国の歴史では英雄でありましょう。しかし、日本史また世界史においては、それほど重要な人物とは言えません。李舜臣は歴史の流れを変えるほどの人物とは思われません。(文禄慶長の役は秀吉の死で中止になった。)
  
それに反して、東郷元帥は歴史の流れを決定的に変えた人物であります。

(中略)

二人にこれだけの違いがあるにもかかわらず、東京書籍は、朝鮮の李舜臣を載せて、日本の東郷元帥を載せません。
  
東京書籍は、日本の子供達に、

「韓国の英雄、李舜臣を教えなさい、しかし、日本の英雄、東郷元帥は教えるな」

との方針で教科書を作った、としか思われません。
  
これでは、日本の教科書ではなく、韓国の教科書です。
  
引用
http://kyoukasho.blogspot.jp/2011/06/blog-post_2576.html


*これ、ぞっとしません?
東京書籍を執筆した学者さんが心底こわい。


バンダービルドさんのコラム(一部)
【韓国の反応】ある韓国人の悩み「いつからか韓国の歴史教科書の記述が主観的で偏向していると思うようになり、信じられなくなってしまいました」