韓国との出会い

趙甲濟(チョ・ガプジェ)の超少数派サイトから日本人女性の寄稿です。
なんともいえない愕然とする気持ちになる。

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韓国との出会い

池田美江子

私は、多富洞(タブドン)、倭館(ウェグァン)、浦項(ポハン)地域を通じて、20年間、出会うことができなかった想像を超越するほどの深い韓国と会うことができました。
「多富洞(タブドン)に行こう」と決心したのは、今年の5月初めでした。
それは、前日にソウル戦争記念館の「6.25戦争室Ⅲ」を見た後、耐えることができない怒りを感じて、じっとしていられなかったからでした。

私は韓国に20年居住している日本人です。
若い頃、日本の本心を隠す文化に食傷して、日本を離れる計画をたて、英国留学を考えていたが、ふとしたきっかけで韓国人の夫を得て、結婚しました。
結婚する前、夫の家族の反対に合い、両国の歴史を図書館に行って勉強しつつ、その時読んだ反日思想の本を介して、韓国に行く目的を明確に整理しました。
 
「自分を通じて韓国人の反日感情を少しでも軽減し、解消させることができれば…」

だから私は、日本という国を背負って韓国に来ました。
 
韓国生活が始まり、実際に夫の両親と生活している中で、沖縄に強制出兵した義父から、このような言葉を聞いたことがあります。
 
「日本人でも良い人がいた。逆に、韓国人でも悪い奴もいた。みんな同じ人間だ」
 
また義母からも、このような言葉をいただいたことがありました。
 
「日帝時代には治安も良かった。貯水池と鉄道も日本人が作った。日本人が作ったものは、丈夫で壊れることもない」
 
私は非常に驚きました。
すなわち、義理の両親が私たちの結婚に反対されたのは、嫁が日本人だからではなく、自分たちが選択した嫁ではなかったからでした。
そんな義理の両親と夫の多くの愛を受けて、私の韓国生活は非常に安定しました。

しかし一般的な生活の中で、日本人が韓国で生活するのは、それほど簡単ではありません。
特に、3月1日と8月15日は、日本語を話してはならないと考えて、毎年注意しました。
また、日本語講師時代には、学生が日帝植民地時代の件で意見が半々に分かれ、学生同士の熾烈な議論がなされて、授業が中断して家に帰って泣いたりしました。

反日問題が私一人だけの問題なら、それでも耐えることができます。 
5年間の日本での生活を終えて帰国した娘が、小学校5年生のときに受けた「いじめ」は、非常にひどかったです。
そのころテレビでは「野人時代」が流行した頃でした。
 
また、小さな息子が幼稚園で柳寛順の偉人伝を学んだとき、「なぜママは日本人なの?イギリス人やフィリピン人ならよかったのに…」
友達の痛くて激しい視線を受けた息子を思うと、胸が非常に痛かったです。

一方で、このような経験もありました。
韓国に初めて来たときに、複数の人が、「韓国のどこに行きたい?」と聞くので、私はいつも「扶余に行きたい!」と答えていました。
観光地の釜山と慶州よりも、扶余だったのです。
しかし行く機会はまれです。
韓国に住んで10年ほどしたときに、近所の保護者と一緒に、歴史教育のために扶余と華城に観光バスで息子と一緒に行くことになりました。
 
バスがその地域に近づけば近づくほど、山が緩やかになり、慶北地域より心が安らかになりました。
そこは、どことなく日本を感じさせました。
そして、百済博物館に入って、百済村のモデルを見た瞬間に、全身に鳥肌がたちました。

「ああ、やっと戻ってきた!」

それは、無意識の自分がそう思っていたようでした。
もし前世というものがあるなら、私はその時代に、日本に流されて行って、百済の村を懐かしがっていた人の中の一人だったようです。
それで私は、「韓国に嫁に来て、今こうして韓国を愛して生活しているんだ」としみじみ感じました。
 
私は現在、大邱市寿城区に住んでいます。
車で少し行くと、ノクドン書院というところがあります。
そこは、豊臣秀吉の時代、壬辰倭乱に出兵した沙也可が朝鮮を選択して帰化した金忠善(沙也可)将軍を祀る場所です。
この将軍は何を考えで朝鮮を愛して帰化し、自分の祖国である日本軍と戦ったのでしょうか…

沙也可 - Wikipedia
『朝鮮王朝実録』や『承政院日記』のような信憑性の高い史料にも記述があることから、当時沙也可と呼ばれた日本軍からの降伏者が実在したことは確実視されている。しかし、日本側史料には該当するような大物の亡命武将の名前は見あたらないこと、日本が優勢であった緒戦期での投降とされていること、その時期には朝鮮が日本からの投降者(朝鮮では「降倭」という)を受け入れずに多数死刑にしていること等から、沙也可に関する一連の伝承は信憑性が薄いとされている。仮に、加藤清正勢1万人にあって、3000人もの直属の兵を率いるとなると加藤清正の所領20~25万石のうち6万石(100石あたり5人の軍役が標準的であった)相当の禄高を有する有力家臣がいたことになるが、そのような地位に在った人物が上陸からわずか1週間後に寝返ったというのはあまりにも現実離れしている。そして朝鮮軍に鉄砲を伝え日本軍と戦ったにもかかわらず、その後も朝鮮軍は安易に鉄砲隊の前に出て一斉射撃を浴びて壊滅させられたりしており、鉄砲術が伝わっていたにしては鉄砲隊への十分な対処が出来ていない。


 
私たちの家の近くには、寿城池があります。
その池は、日帝時代に不足した農業用水のために、総督府に直談判して、自分の私財も投資した水崎林太郎氏が現地の農民たちと協力して作った池です。
水崎さんは「この池が見えるところに韓国の墓を立てて、そこに留まりたい」という遺言どおり、今現在の寿城池に彼の墓があります。
 
そんな水崎林太郎さんの存在を知ったのは、今から6年前のことでした。
私は、もう一度決心しました。
 
「この水崎さんのように、ここで永遠に眠りたいと思うほど、存分に愛することができる韓国の場所を作りたい!」
 
そう振り返ると、私は非常に良い時代に非常に良い場所で、好きな韓国との出会いを深めています。
それはすべての歴史の中の、多くの先人たちの苦労の土台があったからだと思います。
その先人たちがいるからこそ、今の私はここに存在しています。
 
そのような考えを持っていた私に、ソウルの戦争記念館の展示は、少し違和感がありました。
それは、記念館の最後にある「6.25戦争室Ⅲ」が、「UN軍のおかげで今の韓国が存在する」と強く主張するように、私は感じたからです。
 
確かにその時、マッカーサーの仁川上陸作戦がなかったら、そして63カ国の参戦と多くのサポートがなかったら、今の韓国ではなかったかもしれません。
しかし、そのUN軍の下で、愛する祖国のために命をかけて戦った国軍をはじめ、多くの韓国国民の犠牲は、どうなのでしょうか?
 
「今の私たちが存在するのは、愛する祖国を守った英霊、その他多くの韓国国民の犠牲のおかげであり、それをサポートして一緒に戦ってくれたUN諸国だった」とする必要がありませんか?

その際、民族の誇り、民族主義、国家という概念が当然存在していると信じていた私の固定観念が揺れました。

「私が今まで出会った韓国は、本物の韓国と言うことができますか…」
 
結局、それはあくまでも環境で与えられた「受動的な韓国との出会い」であり、自ら積極的に会った「能動的な韓国との出会い」ではありませんでした。
果たしてそんな韓国を、愛している!と簡単に言うことができますか?
愛されるので愛するというような、そんな少女漫画のような浅い出会いは吐き気がします。
韓国と私は、国家民族を越えなければならない「出会いの姿勢」から根本的に変わらなければならないと感じました。
さらに、壮絶で壮大な韓国との出会い!
最終的に私は、今回の多富洞(タブドン)、倭館(ウェグァン)、浦項(ポハン)地域を介して、20年間会うことができなかった想像を超越するほどの深い韓国と出会ったのです。
 
その日は重い雲がいっぱい垂れ込めた雨上がりの午後でした。 
6.25戦争時、最も激しい戦闘かおこなわれた多富洞(タブドン)、大邱(テグ)を車で高速道路を走りながら、両側の山々を横目でみました。
明らかに、この山を越えて多富洞(タブドン)、大邱(テグ)を征服するだけで、一気に釜山まで陥落可能な地形であることが確認されました。
震える手足を押さえて、ハンドルを持ちました。
もし一人だったら来なかったでしょう。
助手席で同行していた人の軽い会話が、緊張した私の心を快適にしてくれました。

多富洞(タブドン)戦闘記念館に到着して、足を下ろした瞬間、この地でどれだけ多くの人々が汗と血と涙を流して戦ったか…と思い、心が震えて、立って歩くことも大変でした。
 
ただ、今の私にできることは、この戦争の歴史を直視することです。
記念館を回って展示物を見ながら、護国英霊たちの深い息吹を感じることができました。
 
外に出ると、目の前にユハク山がありました。
シン・ハギュン主演の「高地戦」という映画のワンシーンが浮かびました。
その横には「映画ブラザーフッド」の背景となった328高地もありました。
目の前に広がるこのすべての光景は、65年前、実際に戦争が起こった現場でした。 
55日間、熾烈に多富洞(タブドン)戦線を守ったので、今の韓国の自由主義が存在します。
もしその時この場所を守らなかったら、韓国はもちろん日本も、どのようになっているかわかりません。
 
そして、洛東江に沿って走り、倭館戦勝館に行きました。
私はその時、洛東江がこんなに小さいとは思わなかったです。
心の震えはやっとおさまりました。
しかし記念館の2階で、6.25の背景の「アチソンライン」の説明を読んだとき、心の震えは怒りの震えへと変わりました。
 
「アメリカのアチソンが、このようなラインを勝手に引いて、共産圏に戦争を誘導したのではないか?」
 
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【韓国の反応】ニクソン元大統領「日本人とドイツ人が最も能力がありダイナミックで活力ある国民」「朝鮮戦争は韓国ではなく日本を守るための戦争」

 
私はこの時初めて、米国の軍事産業、すなわち米国の経済復興のため、この韓半島が自由主義と共産主義の戦争の舞台となったのではないかと思いました。
 
このように、この記念館は、作った人の意志が感じられる展示遺物でわかりやすかったです。
上階にある6.25韓国動乱(朝鮮戦争)の日程別朝鮮半島戦線の変化では、戦争の全体像を一目で見ることができました。
ソウルの戦争記念館よりもはるかに韓国の観点から展示されていて、客観的かつ理解しやすい場所でした。

次は倭館鉄橋に向かいました。
川沿いを走りながら考えました。
当時、この洛東江が真っ赤な血の色に染まったことを…
車を降りて鉄橋を歩きました。
こんなに狭い洛東江の倭館鉄橋で、ソウルの漢江鉄橋爆破事件のようなことが起きたとは…
鉄橋を爆破する前に渡れなかった民間人は、何を思ったのだろう…
もしかしたら、家族がここで別れて永遠に会うことができなくなってしまったのかも…
鉄橋を爆破場所には、当時の写真が展示されています。
心の震えは怒りの震えと重なって、我慢できない感情に変わりました。
護国英霊たちの悲しい叫びは、とどまるところを知りません。
 
「ここまで来たのだから、浦項にも行こう。若い護国英霊の学徒兵に会いたい!」
 
翌日、大邱浦項の高速道路で、今回は車を東に走らせました。
パルゴンICから乗るその道は、65年前、右は自由主義、左は共産主義に分かれて争っていた戦線の近くにあります。 
「この地で、人類の歴史の2大イデオロギーが、白衣民族の高貴な尊厳を奪ったんだ…」ため息。
 
空は限りなく晴れていましたが、私の心はすでに憎しみと怒りに濁っていました。
学徒義勇軍の戦勝館は、浦項の隅に静かに位置していました。
 
浦項出身の知人が、「こんなところにあるとは思わなかった」と言った言葉が浮かびました。
記念館に入ると、息子と同年代の、学帽をかぶった学生の写真が私たちを迎えました。
 
「あ…あまりにも幼い。この子供たちを祖国のために戦場に送らなければならなかった母の心は一体…」
 
今まで行った記念より、強烈に胸がつかえました。
その場に座りこんで泣きたい心を抑えながら、展示を直視しようとしました。
しかし、記念後半にある「母への手紙」で、その意志さえ簡単に崩れてしまいました。
涙がとめどなく流れました…

この6.25戦争は、単に1つの民族間の思想の違いのために起こった戦争ではありません。
もちろん複雑に絡​​み合った当時の世界の状況を慎重に整理しなければならないのはもちろんですが、結果的に韓半島を世界がどのように扱ったのかという点から見れば、日帝時代が敗戦に終わったその後、北からロシアと中国の共産主義が侵略してきて、南からはアメリカの自由主義がUN軍という「正義の味方」のような形で現れて、統治しました。

この地は、世界を席巻した思想と思想の第三次世界大戦と言える激しい戦争だったということはできないでしょうか。
朝鮮半島においては、寝耳に水のような戦争だったのではないでしょうか?
そのきっかけは、やはり日本の大東亜共栄圏、植民地政策の野望の失敗にあります。
 
本来なら、敗戦した日本こそが戦争の舞台となって、東日本と西日本が自由主義と共産主義に分かれ、38度線のように分断されたかもしれません。
この半島は、日本の代わりに、人類の歴史上の2台イデオロギー・思想の最後の相克の現場になってしまったのです。
 
このように、人類は歴史上、理念や思想などを作って、より幸せな人生を追求してきました。
しかし今までの理念思想が人類に与えたのは、最終的には2度の世界大戦ではなかったでしょうか?
 
特に今、この半島は休戦という、世界を代表する2大理念の最後の決戦場でもあります。
 
白衣民族にとって、この現実的な課題はあまりにも重く、人類の号泣の涙を抱いて、アジアを代表して、その精神を世界に発信することができるのも、この白衣民族しかないでしょう。
 
韓民族と、歴史上のすべての人類の「恨」を解くことができるのも、この号泣の涙を骨の中深く知る白衣民族しかありません!
この二つのイデオロギーを包超することができる新しいイデオロギーは、明らかに、この地から世界に広げていけるに違いありません。
その日はそう遠くありません。
 
世界のミッション(mission)を実現して、新しいイデオロギーを世界に発信する韓国!
これからの私の人生をかけて、このような世界の宝である韓国と会いたいと心の奥深く思っています。
 
そして同時に、この韓国の価値を、私は世界に発信していきたいです。
特に、人類の歴史上2大理念の激しい相克の現場だった多富洞(タブドン)、倭館(ウェグァン)、浦項(ポハン)地域は、必ず世界遺産になるべき場所だと思います。
ヨーロッパの東西ドイツの間に置いたベルリンの壁が、今は教育の現場であり観光地であるように、世界の多くの人々が、この多富洞(タブドン)、倭館(ウェグァン)、浦項(ポハン)地域に教育、観光に来るべきでしょう。

 
生きた歴史との出会い!
特に私は日本人なら、一生に一度は訪問しなければならない場所として、この多富洞(タブドン)、倭館(ウェグァン)、浦項(ポハン)地域を推進したいと思います。
実際、今までに約100人程度の日本人に紹介しま​​した。
この教育観光に参加した彼らは、涙を流しながら言いました。
 
「知らなかった…」
 
まず、私たちは知らないことを知らなければ。
そんな謙虚な姿勢こそ、いつか国家間の相互理解につながるものです。
民族を超えた人間としての歴史をありのままに直視して、正確に知ること。
そして、今までの歴史を作ってきた先人たちに敬意を表して、人類の歴史を推進する偉大な一歩を踏み出すことです。
その、人類を感動させる新しいビジョンを作り出すためにも、この多富洞(タブドン)、倭館(ウェグァン)、浦項(ポハン)地域の涙の歴史と必ず会う必要があることを確信しています。
 
6.25戦争の護国英霊をはじめ、人類の歴史の中で戦争の犠牲になった多くの魂の死を、決して無駄にしてはなりません。
だから私は、日本人をはじめとする全世界の人々に、朝鮮半島のが多富洞(タブドン)、倭館(ウェグァン)、浦項(ポハン)地域の存在を継続して伝えて、この地から新たな未来を生み出す意志と決意を、命が続く限り後世に繋げていきたいです。
 
2015年10月1日

池田美江子

引用ソース
http://www.chogabje.com/board/view.asp?C_IDX=63689&C_CC=BC


*この人は真面目で善良なんだろうけど、それゆえに心が痛い。




韓国人のコメント


・その上の文で、「日本でも良い人がいた。逆に韓国人でも悪い奴もいた。みんな同じ人間だ」と言った人は気立てが美しい人です。


・韓国人よりも韓国を愛している方ですね。
恥ずかしいですしね。頑張ります。


・澄んだ魂です。
涙が流れますね。
韓国生活に祝福を!


・本当に感動です。胸がつまります。
何故か恥ずかしいです。
私は韓国で生まれて30年生きながらも、そのような歴史的な場所に行ったことがありませんでした。
次は優先的にそういうところを訪ねてみようと思いました。
投稿者に感謝します。
願いが美しく実を結ぶことを願っています。


・なぜか涙が出ます。


・心に響く文、よく読みました。
韓民族の哀歓を、これほど深く理解していただける日本人に会えて、感無量です。
歴史の荒波の中で、もがいてバタバタしながら、この民族は、今日も死ぬほど力を尽くしています。過去5千年のように…
9月21日、プレスセンター20階で出会った池田さん、私を覚えていますか?
静かに笑った姿を鮮やかに覚えています。
火のように熱い絆を大事にしている方だなんて、知りませんでした。
改めて良い文章をありがとうございます。


・20年間の韓国での生活で、韓国人の卑怯さと偽善(嘘上手)も身につけたんですね。
なぜ韓国が分断されたまま70年間になるのか?
日本のせいではありませんよ。
北朝鮮がああやって奴隷生活をしてるのは、彼らの不道徳のせいです。
韓国の一部地域住民の、理解できないわがままのせいです。
この事実を認めて大韓民国が一つになれば、北朝鮮は音もなく崩れるし、すべての分裂は終わります。
他国を責めることではないと思います。
ともあれ、大韓民国のために友好的な良い文を書いていただいてありがとうございます。


・……韓国人として…恥ずかしいです。


・多富洞戦闘シーンを振り返って、歴史を観察して、自らの自己価値と自尊心を回復するための、あなたの信じられないほどの悟りは、私たちのすべてが学ぶべき姿だと思います。
共食いの戦争を振り払って、韓国人たちが人類のためにどんな犠牲を払ったのかを指摘した、歴史に対するあなたの洞察に大きく共感し、深く考えるようになります。
良い記事をありがとうございます。


・はい。
特に多富洞戦闘シーンを最初に訪問して見ることをお勧めしたいと思います。
生と死が交差するところで、私たちは本当の意味で、生命、自由、人権の意味を反芻できるからです。
良い記事、ありがとうございます。


・普段感じない考えを持つようになりました。
ありがとうございます。